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	<title>地震体験談(被災経験談)</title>
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	<description>悲惨な経験を忘れずに。防災に役立てましょう。</description>
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		<title>岩手宮城内陸地震体験記③　　緊急地震速報発令</title>
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		<pubDate>Sat, 30 Oct 2010 11:50:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[岩手宮城内陸地震（2008年）]]></category>
		<category><![CDATA[岩手宮城内陸地震]]></category>
		<category><![CDATA[緊急地震速報]]></category>

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		<description><![CDATA[6月14日午前8時43分、岩手、宮城内陸で発生した地震で、緊急地震速報を受信した当社社員と私自身の体験を報告いたします。新潟本社（新潟市東区）で数人の社員が作業に出掛ける準備をしていたところ、緊急地震速報を受信しました。 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>6月14日午前8時43分、岩手、宮城内陸で発生した地震で、緊急地震速報を受信した当社社員と私自身の体験を報告いたします。新潟本社（新潟市東区）で数人の社員が作業に出掛ける準備をしていたところ、緊急地震速報を受信しました。</p>
<p><span id="more-248"></span><br />
この時の発信内容が、約30秒前、予測震度３であったと記憶しているが、正確ではないかも知れないとの事。社内でこれを聞いた社員は大きな揺れではないと判断したが、外にいた他の社員に地震が来ることを窓から大声で通知。予測が３ということで特別な避難はせずに様子をみていたところほぼ正確に揺れ始めたということです。</p>
<p>次に、私は本社のサーバーから携帯に送信されたメールを自宅で受信しましたが、受信時は携帯から離れており、実際に揺れ始めてから急いでメールを確認したところ、岩手内陸南部での地震と確認。事前確認とはなりませんでしたが、揺れている最中に内容を把握できました。メール受信の遅延を考慮しても30秒前には事前に受信できていましたので実際に確認していればもっと有効に対処出来たと思われます。</p>
<p>　加えて、初めて体験したＮＨＫの緊急地震速報とauのエリアメールについても触れたいと思います。<br />
まず、NHKの緊急地震速報ですが、本震発生時はテレビをつけていなかったために未確認でしたが、9時20分に発生した余震では私のいた場所（新潟市秋葉区）で揺れの約30秒前に画面に出ました。（このとき当社本社サーバからの携帯へのメールがほぼ同時に着信されています）ただし新潟県の放送圏内でも震源に近い県北（村上方面）ではもっと時間差はなかったと思われます。</p>
<p>また余震の場合では番組が既に地震の特番となっている為に、テロップが目立なく分かりにくいと思いました。改善の余地はあるかと思いましたが数十秒も前にＴＶ放送で告知された事は有意義であったと思います。<br />
　auのエリアメールは一回目の本震のみを受信しただけで、それも数秒前受信でした。<br />
初めて受けたせいもありますが、画面をみていてもあまり緊急性は感じられず、見慣れない画面で、何だろう？と言った感じです。</p>
<p>　今回の地震ではまたも大きな被害が出てしまいました。<br />
被害を受けた方々及びその関係者の皆様にお見舞い申し上げます。<br />
2004年に発生した中越地震から４年、その間に福岡西方、能登沖、中越沖、そして先日の茨城沖に今回の岩手内陸…こんな短期間でＭ７クラスが連発しています。<br />
直下型地震は緊急地震速報も間に合わない地区がどうしても出てしまいますが、有効的に利用できるエリアは広く、特に自治体などは積極的に利用していこうとする心がけが必要ではないでしょうか。</p>
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		<title>岩手宮城内陸地震体験談②　宮城県沖地震の経験が生きた</title>
		<link>http://toukaijisin.com/archives/251</link>
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		<pubDate>Fri, 15 Oct 2010 11:55:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[岩手宮城内陸地震（2008年）]]></category>
		<category><![CDATA[宮城県沖地震]]></category>
		<category><![CDATA[岩手宮城内陸地震]]></category>
		<category><![CDATA[経験]]></category>
		<category><![CDATA[震度6]]></category>

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		<description><![CDATA[6月14日日の地震には、皆さんも驚かれたことと思います。突然の大きな揺れを感じて、頭には宮城県沖地震の恐怖が蘇りました。宮城県沖地震は、今からちょうど30年前の6月12日に起きたマグニチュード7.4の大きな地震でした。
 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>6月14日日の地震には、皆さんも驚かれたことと思います。突然の大きな揺れを感じて、頭には宮城県沖地震の恐怖が蘇りました。宮城県沖地震は、今からちょうど30年前の6月12日に起きたマグニチュード7.4の大きな地震でした。</p>
<p><span id="more-251"></span></p>
<p>鮮明に記憶に残っているのは、自分が医師になった年と重なるからです。30年前医師の国家試験に合格して、大学病院で研修医として働き始めたばかりでした。仙台市内の最大震度は5でしたが、場所によって揺れの違いがあり震度6を記録した場所も会ったようです。突然の突き上げるような大きな揺れを感じて、慌てて机の下に潜り込んだことを覚えています。地震でもっとも印象に残っていることは、看護師のプロ意識でした。自分は医師になったばかりで、到底プロ意識持つ状況ではなかったことを反省をこめて思い出してしまいます。</p>
<p>大学病院の看護師たちは地震の揺れが収まらないうちに、机の下に隠れている新米医師をしり目に、病室の子どもの元に駆けつけていきました。そして、余震の続く中こども達を脇に抱え、避難と誘導を始めたのです。あまりの手際よさに、新米医師の自分はただただ呆気にとられて見ているだけでした。プロ意識を見せつけられ、恥ずかしい経験が未だに思い出されます。地震に遭遇するたびに、その状況を思い出してしまいます。経験は必ず活かされるもので、地震に動じなくなり、患者さんを第一に考えられるようになったのは宮城県沖地震の経験のお陰です。</p>
<p>　岩手・宮城内陸地震は、6月14日8時43分頃の突然大きな揺れで始まりました。ついに宮城県沖地震が来たのかとの思いが、不安をかき立てました。スタッフ始め、来院していた患者さんも、大きな揺れに動揺していました。家の被害などは後回しにして、まずは待合室に駆けつけました。「クリニックの耐震は十分に考えてあり、地震で倒壊することは無いから大丈夫。怪我しても、病院だから安心してじっと待ってよう」と。大丈夫という言葉で安心したのか、患者さん達もパニックを起すことも無く、冷静に地震が終わるのを待つことができました。もちろんクリニックにも、被害はありませんでした。<br />
　仙台市内の被害は軽微で安心していたのですが、時間が経つに連れてテレビを流れてくる映像を見るにつれ、宮城県北の栗駒市の甚大な被害には驚くばかりでした。ニュースでは、山の形が分らないほどの崩落、道路の一部だけが残っただけの土砂崩れ、旅館を押し流した土石流など、今までに目にしたこともないような大きな被害が報道されていました。直下型で限局された地域の強い揺れと、火山灰の地層の影響という理由で大きな被害になったようです。家屋の被害が少なかったことは不幸中の幸いでしたが、6月24日の官邸対策室の発表では、死者12人、行方不明者10人で、2週間後でも行方不明者が見つからないという異常な事態です。<br />
　災害時における政府の対応が遅れることがたびたび問題となってきましたが、今回の対応はかなり早かったという印象があります。警察庁や消防庁では直ちに災害本部を立ち上げ、政府も直ちに災害対策室を立ち上げ、福田総理も「被災状況の早期把握、迅速な広報、被災者などがある場合は救助に全力を挙げるように」と指示。自衛隊のヘリコプターが地震直後に派遣されました。内閣府特命担当大臣が、午後には現地に赴き、栗原市に政府現地連絡対策室を設置するなど、医療面でも当日中に医師団が診療を始めるなど、従来の地震の教訓がかなり活かされた迅速な対応は評価できるものでした。<br />
　話は変わりますが、宮城県沖地震は25～40年という比較的短い間隔で周期的に発生しています。地震調査研究推進本部によれば2007年1月1日から10年以内での発生確率は60%程度、30年以内では99%とされています。もうひとつ、三陸沖南部海溝寄り地震は30年以内の発生確率が80-90%とされ、宮城県沖地震と連動した場合にはマグニチュード8.0前後の大地震になると予想されています。今回の地震が宮城県沖地震でなかったことに安心しましたが、逆に目の前に迫って来ている宮城県沖地震への不安がつのるばかりです。<br />
　地震が起るたびに、教訓を活かすということが大事になります。今回のクリニックの対応や政府の対応は、教訓から生まれたものです。子育ても含め経験が教訓として形になることはとても大事なことですが、経験が活かされないということも侭あります。今回の経験を教訓として、必ず起る宮城県沖地震に向けての地震対策を忘れないようにしたいものです。<br />
　最後に、この岩手・宮城内陸地震で亡くなられた方々の御冥福と行方不明者の一日も早い発見を心よりお祈り申し上げます</p>
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		<title>岩手宮城内陸地震経験談①　沢がなくなった・・</title>
		<link>http://toukaijisin.com/archives/244</link>
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		<pubDate>Tue, 28 Sep 2010 11:39:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[岩手宮城内陸地震（2008年）]]></category>
		<category><![CDATA[2008年]]></category>
		<category><![CDATA[岩手宮城内陸地震]]></category>

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		<description><![CDATA[宮城県沖地震から３０年と３日後の６月１４日。丁度私は所用で秋田に居ました。
朝８時過ぎ、突然止めてあった車が前後に動き出し地面がまるでプリンのように波打ち
長い横揺れ・・・・地震だ！

横揺れが止むと、とっさに車に駆け寄 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>宮城県沖地震から３０年と３日後の６月１４日。丁度私は所用で秋田に居ました。<br />
朝８時過ぎ、突然止めてあった車が前後に動き出し地面がまるでプリンのように波打ち<br />
長い横揺れ・・・・地震だ！</p>
<p><span id="more-244"></span></p>
<p>横揺れが止むと、とっさに車に駆け寄りカーナビのTVにかじりつくと通常番組が変更され地震速報。見ると震源地は岩手県内陸部南部と言う発表。</p>
<p>かかりづらい携帯電話を何度もかけ直し何とか家族の無事と震源地近くの友人の無事を確認しとりあえずほっとしました。<br />
尚も情報を収集しようとカーナビのTVにかじりついていると震源地が岩手県南部～宮城県北部へと訂正。次第に被災状況が明らかになっていきます。<br />
ヘリからの映像がTVに映し出され、それを見た瞬間全身が凍りつきました・・・・・・<br />
私が良く知っている地形なのですが山が裂け、そこにあるべき沢が無くなっているのです！</p>
<p>今回被害の酷かった花山と言う集落、実は私とも縁の深い集落でした。</p>
<p>春から初夏にかけ毎週宮城県北部に所用のある私は、ここ数年間空き時間を利用し、<br />
かなり通い詰めた場所でした。</p>
<p>地元の方との暖かい交流、特にお気に入りの沢は集落から程近くながら<br />
あまり人の手は入らず、ワサビが自生し、カモシカ親子が姿を見せ、ヤマセミが沢を<br />
飛び回り、モリアオガエルが産卵する・そんな場所でした。<br />
勿論岩魚もすこぶる元気。ここに来る度に本当に沢山の元気を貰っていました。</p>
<p>今回の地震では、幸い集落のほとんどの方が救出されたと聞き安堵していますが、発見されていない未だ行方不明者の方や亡くなった方もおり救出された皆さんも余震の続く中不自由な避難所生活を続けていると聞きます<br />
亡くなった皆様にはご冥福を被災された皆様にはお見舞いと一日も早い復興を謹んで心よりお祈り申し上げます。</p>
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		<title>昭和三陸地震　体験手記②　～地震　海鳴り　ほら津浪～</title>
		<link>http://toukaijisin.com/archives/241</link>
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		<pubDate>Tue, 10 Aug 2010 08:56:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[昭和三陸地震（1933年）]]></category>
		<category><![CDATA[三陸地震]]></category>
		<category><![CDATA[体験手記]]></category>
		<category><![CDATA[体験談]]></category>
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		<category><![CDATA[経験談]]></category>

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		<description><![CDATA[昭和８年３月３日、早朝。
当時小学校１年生だったわたしは、ただならぬ気配に目を覚ました。寝ている部屋の畳が、下から突き上げられるように大きく揺れ、家全体がミシミシと異様な軋みを立てている。
　「地震だ。起きろッ」
おふく [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>昭和８年３月３日、早朝。<br />
当時小学校１年生だったわたしは、ただならぬ気配に目を覚ました。寝ている部屋の畳が、下から突き上げられるように大きく揺れ、家全体がミシミシと異様な軋みを立てている。<br />
　「地震だ。起きろッ」<br />
おふくろの声に慌てて床を飛び出し、服を着ようとしたが、足もとが定まらない。 まるで大波の海を漕いでゆく伝馬船のように、右へ寄ったり、左へ寄ったり、やっとの思いで服をつけ、ゴム長をはいて、おふくろの後に従った。<span id="more-241"></span></p>
<p>　 母は、わたしより３歳下の弟を背にして、綿入れねんねこに躰をつつんでいた。表へ出ると、外はまだ真っ暗だが、隣り近所の人々も道路へ出て、不安そうに身を寄せ合い、話し合っている。そのうちに、表通りを歩く人の数が急に多くなりだした。人ばかりでなく、大八車や、リヤカー、それに荷馬車まで、目の前の道路を溢れるように急いでゆく。 当時はまだ未舗装の乾いた道を、みんな一様に東から西の方へと向かって、ざわめきながら流れてゆく。</p>
<p>「津浪だ。津浪が来たぞ」　人々のざわめきのなかから、そんな声が聞こえてくる。<br />
ツナミ。ツナミって、何だろう。<br />
大人たちが、こんな大勢逃げてくるところをみると、よっぽどおっかない怪物か何かに違いない。わたしは、途方もない大きな魔物が海からあがってきて、海辺の人々を襲っている姿を思いうかべ、おふくろのねんねこの端を固く握りしめていた。</p>
<p>　翌朝、兄たちと一緒に浜に出てみた。<br />
わが家は、海から砂浜のひろい空地をへだてて、300ｍほどしか離れていないが、海岸段丘につらなる傾斜地の途中にある。浜へ出るゆるやかな勾配を下りてゆくと、砂地に横たわる防潮堤の切れ間、渚へ抜ける通路のあたりに大きな水溜りがひろがっていた。</p>
<p>　深夜の騒ぎの名残りをみせて、不気味な光を放っているそのどんよりした水面に、まるで大きなハマナスの花でも咲いたように、赤い輝きをみせてぽっかり浮かんでいるものがある。近づいてみるとそれはボックリであった。女の子供が晴着を着たときに履く、あの丸形のボックリ。朱の色に塗り上げられた可愛いボックリの片方が、水に浮かんでいるのであった。</p>
<p>　 鮮烈に輝く赤いボックリ。その瞬間、幼ないわたしは「ツナミ」というものの正体を見たような思いに打たれた。　夜の海の底からやってきた恐ろしいツナミが、晴着姿の女の子をひと呑みにしている光景がまざまざと浮かんできて、思わず首をすくめてあたりを見まわした。 怪物の大きな口に呑みこまれながら、懸命にもがいていたその印が、ここに残っている赤いボックリなのだ。途方もないツナミの恐ろしさ。７歳のわたしは独り合点をし、津浪の恐怖を幼い記憶のヒダに、しっかりと刻みつけているのだった。</p>
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		<title>昭和三陸地震　体験談①</title>
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		<pubDate>Sat, 24 Jul 2010 08:50:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[昭和三陸地震（1933年）]]></category>
		<category><![CDATA[体験手記]]></category>
		<category><![CDATA[体験談]]></category>
		<category><![CDATA[昭和三陸地震]]></category>
		<category><![CDATA[津波]]></category>

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		<description><![CDATA[中央気象台で地震を記録したのは、午前二時三十二分十四秒であった。
三月三日といえば春の気配もわずかに感じられる頃だが、東北地方の三陸沿岸は積雪が大地をおおう厳寒の中にあった。中央気象台の記録によると、その時刻の気温は零下 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>中央気象台で地震を記録したのは、午前二時三十二分十四秒であった。<br />
三月三日といえば春の気配もわずかに感じられる頃だが、東北地方の三陸沿岸は積雪が大地をおおう厳寒の中にあった。中央気象台の記録によると、その時刻の気温は零下十度近くをしめしている。<br />
天候は晴れで、夜空には凍てついたような星が光っていた。</p>
<p><span id="more-238"></span><br />
　三陸沿岸を襲った地震は強烈で、人々は、夜の眠りを破られて飛び起きた。家屋は激しく振動し、時計はとまり、棚の上にのせられていたものは音を立てて落下した。壁が剥落し、障子の破れた家もあった。また、池や沼を厚くおおっていた氷や積もった雪にも割れ目が生じ、町の水道管は破損した。</p>
<p>　強震に驚いた人々は、家から走り出た。震動時間は五分から十分間続き、水平動であった。<br />
戸外はむろんのこと家の中も凍りつくような寒さであった。人々は歯列を鳴らして身をふるわせ、震動がやむと再びふとんの中にもぐりこんだ。地震の後には津波のやってくる可能性がある。しかし、三陸沿岸の住民には、一つの言い伝えがあった。それは、冬季と晴天の日には津波の来襲がないということであった。</p>
<p>　その折も多くの老人たちが、<br />
　「天候は晴れているし、冬だから津波は来ない」<br />
　と断言し、それを信じたほとんどの人は再び眠りの中に落ち込んでいった。</p>
<p>　しかし、その頃、海上は急激にその様相を変えていた。<br />
海水が徐々に干きはじめ、それにつれて沿岸の川の水は激流のように飛沫をあげて走り、海に吸われていた。海水の干く速度は急激に増し、湾内の岩や石が生き物のように海水とともに沖に向かって転がりはじめた。岩は激突し合いながらすさまじい音響を立てて移動してゆく。たちまちに、湾内の海底は干潟のように広々と露出した。</p>
<p>　沖合いに海水と岩の群れをまくし上げた海面は、不気味に盛り上がった。、そして、壮大な水の壁となると、初めはゆっくりと、やがて速度を増して海岸へと突進しはじめた。<br />
　壁は海岸に近づくにつれてせり上がり、一斉にくだけた。</p>
<p>　家々には、地震で起きた人々の手でともされた灯が点々とつらなっていた。屹立した津波が、周囲を水煙でかすませながら部落の上に落下し、たちまちにして灯は絶えた。<br />
家は水圧で粉砕され、人の体とともに激しく泡立つ海水に巻き込まれ、やがてそれは勢いよく干きはじめた海水に乗って沖へと引きさらわれていった。</p>
<p>　海水は、再び海底を露出させ沖合いで体勢をととのえるように盛り上がると、第一波より一段とすさまじい速さで海岸へと進んでいった・・・・</p>
<p>　吉村昭氏の「三陸海岸大津波」より</p>
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		<title>昭和三陸地震とは？</title>
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		<pubDate>Sat, 10 Jul 2010 08:27:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>
		<category><![CDATA[1933]]></category>
		<category><![CDATA[昭和8年]]></category>
		<category><![CDATA[昭和三陸地震]]></category>
		<category><![CDATA[津波]]></category>
		<category><![CDATA[防潮堤]]></category>

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		<description><![CDATA[昭和三陸地震は、1933年（昭和8年）3月3日午前2時30分48秒に、岩手県釜石市東方沖約200km（北緯39度7.7分、東経144度7分）を震源として発生しました。三陸沿岸は軒並み震度5の強い揺れを記録したものの、明治 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>昭和三陸地震は、1933年（昭和8年）3月3日午前2時30分48秒に、岩手県釜石市東方沖約200km（北緯39度7.7分、東経144度7分）を震源として発生しました。三陸沿岸は軒並み震度5の強い揺れを記録したものの、明治三陸地震の時と同じく地震による被害は少なく、地震後に襲来した津波による被害が甚大なものでした。最大波高は岩手県気仙郡三陸町（現・大船渡市）綾里で28.7mを記録したとされています。<span id="more-232"></span></p>
<p>この地震による被害は、死者1522名、行方不明者1542名、負傷者1万2053名、家屋全壊7009戸、流出4885戸、浸水4147戸、焼失294戸。</p>
<p>特に被害が激しかったのは、岩手県の田老村（後の下閉伊郡田老町、現・宮古市）で、 人口の42%に当たる763人が亡くなり（当時の村内の人口は1798人）、家屋も98%に当たる358戸が全壊。 津波が襲来した後の田老村は、家がほとんどない更地同然の姿になりました。</p>
<p>現在、田老町には1982年までに高さ10メートル、総延長2433メートルの巨大な防潮堤が築かれ。 1958年に完成した1期工事の防潮堤は、1960年5月23日に発生・来襲したチリ地震津波の被害を最小限に食い止める事に成功しました。 これにより、田老町の巨大防潮堤は全世界に知れ渡りましたが、この巨大防潮堤は、昭和三陸地震の大津波で更地同然になった田老町の防災の象徴となっています。</p>
<div id="attachment_234" class="wp-caption aligncenter" style="width: 687px"><img class="size-full wp-image-234" title="昭和三陸地震　津波が押し寄せた後、家々が跡形もない田老町" src="http://toukaijisin.com/hisai/wp-content/uploads/2010/07/dbc5adbb78c06981089a5f6e2f0844ff.jpg" alt="昭和三陸地震　津波が押し寄せた後、家々が跡形もない田老町" width="473" height="175" /><p class="wp-caption-text">昭和三陸地震　津波が押し寄せた後、家々が跡形もない田老町</p></div>
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		<title>北海道南西沖地震　体験手記③　島が沈没する</title>
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		<pubDate>Thu, 10 Jun 2010 05:14:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[北海道南西沖地震(2003年)]]></category>
		<category><![CDATA[体験手記]]></category>
		<category><![CDATA[北海道南西沖地震]]></category>
		<category><![CDATA[奥尻島]]></category>
		<category><![CDATA[津波被害]]></category>

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		<description><![CDATA[　　あの夜。明るい月がべたなぎの海面を照らし、漁師の多くは早朝のウニ、アワビ漁に備えて寝込んでいた。鴈原課長も、フェリーターミナルから２キロほどの球浦の自宅で布団に入っていた。
　バーンという衝撃波を受けたような激しい揺 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　　あの夜。明るい月がべたなぎの海面を照らし、漁師の多くは早朝のウニ、アワビ漁に備えて寝込んでいた。鴈原課長も、フェリーターミナルから２キロほどの球浦の自宅で布団に入っていた。<span id="more-230"></span></p>
<p>　バーンという衝撃波を受けたような激しい揺れでした。その後の記憶は「悲惨」の一言に尽きます。あの光景はいま思い出してもざわっとくる。波の中で手を離した子供を探して歩く半狂乱の若い奥さんの姿、海面をびっしりと覆ったおびただしいがれき……。「奥尻が沈没した」と思ったほどの衝撃でした。（住宅被害は５２５棟。町の３分の１に相当する家屋を失った。中でも青苗や稲穂、松江地区は壊滅状態だった。）</p>
<p>　揺れがおさまった時、１９８３年に起きた日本海中部地震での津波被害を瞬時に思い起こしました。目の前の浜に出ると、道路がぬれていて、すでに第１波が来た後だった。すぐ家族と高台に避難した。直接は見なかったが、１波は軟らかく、２波、３波はすごい状態で押し寄せてきたようだ。「もう大丈夫だろう」と近所の人と海を見ると、がれきとともに車が浮いていた。中からおばあちゃんを救出したが助かりませんでした。この間、着替えを取りに家に戻った妻が引き波で家もろとも沖に流された。泳ぎが得意なことが幸いし、約２時間半後、１キロほど離れた海岸に泳ぎついた。</p>
<p>　着の身着のまま翌日から報道担当をしました。２００人くらい来ましたか。同じことを何回もしゃべらせられたり、海上保安庁が運んできた被災者用の弁当を食べられたりと大変でした。でも、マスメディアの力の大きさも知りました。全国から義援金や救援物資などが、ものすごい速さで届きましたから。あの温かい支えが、復興の原動力になったと思っています。</p>
<p>　発生直後、私は再建に１０年はかかると思いました。ハード面は５年で完全復興宣言をしたが、宣言から今までが本当の意味での復興だったと思います。昨年の観光客は５万７０００人で震災前を初めて上回り、何年も漁を我慢して育つのを待っていたウニやアワビもやっと回復しました。かつての自然豊かな島にやっと戻ったなと思っています。</p>
<p>　半面、一般会計が５０億円そこそこの町は、住民１人当たり２４０万～２５０万円の大きな借金を抱えることになりました。この負担は大きいなんてもんじゃない。過疎や高齢化は進むし、離島の宿命である行政コストの高さも年々重くのしかかっています。でも、この島に住んで良かったと思える暮らしのために、前向きに頑張っていきたいです。（水道や道路など奥尻町の被害総額は約６６４億円。復興のために国、道、町の予算約８５０億円が投入された）</p>
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