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	<title>地震体験談(被災経験談) &#187; 経験</title>
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	<description>悲惨な経験を忘れずに。防災に役立てましょう。</description>
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		<title>岩手宮城内陸地震体験談②　宮城県沖地震の経験が生きた</title>
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		<pubDate>Fri, 15 Oct 2010 11:55:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[岩手宮城内陸地震（2008年）]]></category>
		<category><![CDATA[宮城県沖地震]]></category>
		<category><![CDATA[岩手宮城内陸地震]]></category>
		<category><![CDATA[経験]]></category>
		<category><![CDATA[震度6]]></category>

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		<description><![CDATA[6月14日日の地震には、皆さんも驚かれたことと思います。突然の大きな揺れを感じて、頭には宮城県沖地震の恐怖が蘇りました。宮城県沖地震は、今からちょうど30年前の6月12日に起きたマグニチュード7.4の大きな地震でした。
 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>6月14日日の地震には、皆さんも驚かれたことと思います。突然の大きな揺れを感じて、頭には宮城県沖地震の恐怖が蘇りました。宮城県沖地震は、今からちょうど30年前の6月12日に起きたマグニチュード7.4の大きな地震でした。</p>
<p><span id="more-251"></span></p>
<p>鮮明に記憶に残っているのは、自分が医師になった年と重なるからです。30年前医師の国家試験に合格して、大学病院で研修医として働き始めたばかりでした。仙台市内の最大震度は5でしたが、場所によって揺れの違いがあり震度6を記録した場所も会ったようです。突然の突き上げるような大きな揺れを感じて、慌てて机の下に潜り込んだことを覚えています。地震でもっとも印象に残っていることは、看護師のプロ意識でした。自分は医師になったばかりで、到底プロ意識持つ状況ではなかったことを反省をこめて思い出してしまいます。</p>
<p>大学病院の看護師たちは地震の揺れが収まらないうちに、机の下に隠れている新米医師をしり目に、病室の子どもの元に駆けつけていきました。そして、余震の続く中こども達を脇に抱え、避難と誘導を始めたのです。あまりの手際よさに、新米医師の自分はただただ呆気にとられて見ているだけでした。プロ意識を見せつけられ、恥ずかしい経験が未だに思い出されます。地震に遭遇するたびに、その状況を思い出してしまいます。経験は必ず活かされるもので、地震に動じなくなり、患者さんを第一に考えられるようになったのは宮城県沖地震の経験のお陰です。</p>
<p>　岩手・宮城内陸地震は、6月14日8時43分頃の突然大きな揺れで始まりました。ついに宮城県沖地震が来たのかとの思いが、不安をかき立てました。スタッフ始め、来院していた患者さんも、大きな揺れに動揺していました。家の被害などは後回しにして、まずは待合室に駆けつけました。「クリニックの耐震は十分に考えてあり、地震で倒壊することは無いから大丈夫。怪我しても、病院だから安心してじっと待ってよう」と。大丈夫という言葉で安心したのか、患者さん達もパニックを起すことも無く、冷静に地震が終わるのを待つことができました。もちろんクリニックにも、被害はありませんでした。<br />
　仙台市内の被害は軽微で安心していたのですが、時間が経つに連れてテレビを流れてくる映像を見るにつれ、宮城県北の栗駒市の甚大な被害には驚くばかりでした。ニュースでは、山の形が分らないほどの崩落、道路の一部だけが残っただけの土砂崩れ、旅館を押し流した土石流など、今までに目にしたこともないような大きな被害が報道されていました。直下型で限局された地域の強い揺れと、火山灰の地層の影響という理由で大きな被害になったようです。家屋の被害が少なかったことは不幸中の幸いでしたが、6月24日の官邸対策室の発表では、死者12人、行方不明者10人で、2週間後でも行方不明者が見つからないという異常な事態です。<br />
　災害時における政府の対応が遅れることがたびたび問題となってきましたが、今回の対応はかなり早かったという印象があります。警察庁や消防庁では直ちに災害本部を立ち上げ、政府も直ちに災害対策室を立ち上げ、福田総理も「被災状況の早期把握、迅速な広報、被災者などがある場合は救助に全力を挙げるように」と指示。自衛隊のヘリコプターが地震直後に派遣されました。内閣府特命担当大臣が、午後には現地に赴き、栗原市に政府現地連絡対策室を設置するなど、医療面でも当日中に医師団が診療を始めるなど、従来の地震の教訓がかなり活かされた迅速な対応は評価できるものでした。<br />
　話は変わりますが、宮城県沖地震は25～40年という比較的短い間隔で周期的に発生しています。地震調査研究推進本部によれば2007年1月1日から10年以内での発生確率は60%程度、30年以内では99%とされています。もうひとつ、三陸沖南部海溝寄り地震は30年以内の発生確率が80-90%とされ、宮城県沖地震と連動した場合にはマグニチュード8.0前後の大地震になると予想されています。今回の地震が宮城県沖地震でなかったことに安心しましたが、逆に目の前に迫って来ている宮城県沖地震への不安がつのるばかりです。<br />
　地震が起るたびに、教訓を活かすということが大事になります。今回のクリニックの対応や政府の対応は、教訓から生まれたものです。子育ても含め経験が教訓として形になることはとても大事なことですが、経験が活かされないということも侭あります。今回の経験を教訓として、必ず起る宮城県沖地震に向けての地震対策を忘れないようにしたいものです。<br />
　最後に、この岩手・宮城内陸地震で亡くなられた方々の御冥福と行方不明者の一日も早い発見を心よりお祈り申し上げます</p>
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		<title>関東大地震　経験談９　阿鼻叫喚の世界</title>
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		<pubDate>Thu, 29 Apr 2010 07:23:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[関東大震災（1923年）]]></category>
		<category><![CDATA[経験]]></category>
		<category><![CDATA[経験談]]></category>
		<category><![CDATA[関東地震]]></category>
		<category><![CDATA[関東大地震]]></category>

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		<description><![CDATA[被災地：東京　本所区
関東大震災当時私は９才、本所区立中和小学校４年生でした。あの日の事は生涯忘れられず、まるで昨日のことの様に恐怖がよみがえってきます。
　９月１日、父は朝から旅行に出かけました。その出かけに、なにか太 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>被災地：東京　本所区</p>
<p>関東大震災当時私は９才、本所区立中和小学校４年生でした。あの日の事は生涯忘れられず、まるで昨日のことの様に恐怖がよみがえってきます。<span id="more-176"></span><br />
　９月１日、父は朝から旅行に出かけました。その出かけに、なにか太陽のまわりが黒ずんだ異様な色をしていたと申しておりました。</p>
<p> <br />
　当日私は始業式の後、夏休みの臨海学校の荷物を受取っていたため帰宅が遅れ、母が私と昼食を共にするため待っていました。忘れもしません、その時のおかずはほうれん草のおしたし、いかと焼豆腐の煮つけでした。お腹をすかした２人が箸をとった瞬間、地下がズンズンと響き、たてに大きく揺れたかと思うと、ガラガラ、もう揺れるなんてものではありません。庭の地面が地響きをたて、地割れし、石灯篭が倒れ、棚のものは勿論、壁、襖、ガラス戸、何も彼もくずれ落ちて差塵をたてています。</p>
<p> </p>
<p>やっとの思いで隣の八畳間の座卓の下に母と一緒にころがり込む様に入り、法華宗でもないのに夢中で、題目を唱えて地震の静まるのを待ちました。ずい分長い間揺れている様でした。とてもガス栓を閉めたり、火を消す状態ではありませんでした。</p>
<p> <br />
　やがて揺れがいくらかおさまったので、外へ出ようとしましたが、家の中は目茶目茶、足の踏場もありません。それに余震が絶えずきますので、とても恐ろしく生きた心地ではありません。店の方は鉄材が散乱し、外へ出られません。いち早く外へ飛び出した店員達が私達を見ますと抱え出してくれました。誰れの顔も蒼白で恐ろしさにおののいております。外は電線がたれさがり、あちらこちら大きな地割れで地震の凄さを物語っておりました。向い側の間口の大きい大石酒店さんの家はぺちゃんこにつぶれ、並びの金物屋さんのおばちゃんが、つぶされた家の中にいると家人が騒いでいました。</p>
<p> <br />
　やがて、あちこちで煙が立ち始め、ここに居ては危険だと皆で相談の結果、私達は本所被服廠跡に避難することとなりました。母が古足袋を家の中から見付けてきて皆に足袋をはかせてくれました。今にして思えば赤いベッチンの冬足袋が私の生命を救ってくれたと思います。</p>
<p> <br />
　私達は、背中に小さな風呂敷包みだけを背負い被服廠跡まで歩いていきました。途中、大八車に沢山の荷物を積んだ避難民で歩けないぐらいでした。被服廠跡にたどりつき、私達は荷物がないので奥の方に入りひとまずゴザを敷いて休んでおりましたが、やがて火の手がだんだんと近づき荷物に火がつきはじめ、もうそこにはいられなくなりました。火の勢いと一緒に何か遠くで花火の様な音がポンポンと絶えず聞こえました。</p>
<p> </p>
<p>そのうち強い風が吹き竜巻となり大きな荷物が飛び散り、炎に追われた人達の髪に火がつきぼうぼう燃え、着物に火がついても消す閑もなく力かぎり逃げまどいました。荷物と人がごろごろ倒れている炎の中をしっかり母の手に握られ、幾度も人波につぶされた私は気を失ったそうです。</p>
<p> </p>
<p>どの位い逃げ回ったでしょうか、気がついたときは私は母のひざでうつらうつらしておりました。多分夜中頃だったでしょう。あたりは助かった人達が大勢いましたが、火傷を負った人達のうめき声「水をくれ」「苦しい」「助けてくれ」と阿鼻叫喚さながら、地獄とはこの様なことと子供心に思いました。その中に元気な男の人がゴム靴の中に安田庭園の池の水を汲んできて飲ませていましたが、その水を飲むとぴくぴくとけいれんをして死んで行くのを幾人も見ました。悪夢の様な一日がやっと明け、私達のまわりは死人がごろごろ横たわり見渡すかぎり焼けこげた荷物と死者が山の様でした。</p>
<p> <br />
　近くの製氷会社から氷を貰ったので、私は小さな子供の焼死体を見ると口に氷を入れて歩きました。中には未だ呼吸があるのか口をぴくぴく動かしている子があり、思い出しても涙があふれてきます。</p>
<p> <br />
　ぼんやり母と二人で地面に座っていますと乞食の様になった我家の女中さんが大声で泣きながらとびついてきました。彼女もたいした火傷もせず助かったのです。又しばらくすると、谷さんの奥さんが両手に連れていた子供を亡くしたと、泣きながら私達の許へ来ました。背中の赤ちゃんは火傷で声も出ない程ですが、どうすることも出来ず、皆抱き合って泣きました。やがて私達は被服廠跡を出て千葉方向へとぼそぼそ歩き出しました。</p>
<p> <br />
　途中ビルの窓から首を出してそのまま黒こげになっている人、赤ちゃんをかばう様に抱きかかえて死んでいる人、もうきりがありません。馬もずいぶん死んでいました。しばらく歩いて行くと焼跡で五六人の男の人が炊き出しをしていました。女中さんがボロボロの前掛けの中に入れて貰ってきました。私達はよごれた手で一つかみづつむさぼり口にほおばりました。何しろ１日の昼から何も食べていませんでした。</p>
<p> </p>
<p> <br />
　母は顔と背中に大火傷をして、まるでお岩さんの様でした。私達の背中の小さい荷物はどこへやら、着物はぼろぼろ、髪の中はじゃりじゃりでした。</p>
<p> <br />
　私達は放心した様にそれでも荒川放水路の鉄橋まで来ました。雨がしとしとと降ってきて川の水は地震の後か茶色くよどみ、水かさも増しうづを巻いて流れております。橋の真中にやっと一人渡れる位の板があり、その板にしがみつく様にはえずって長い鉄橋を渡ったのがとても恐ろしかったと覚えております。</p>
<p> </p>
<p>途中、小岩あたりで畑の中で野宿し、そこから貨物列車に乗せて貰い船橋にたどり着きました。船橋の小学校も避難民でいっぱいでしたが、おにぎりや着物を貰い火傷の手当もしてくださり、やっと人間らしくなりました</p>
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		<title>関東大地震　経験談８　木に引っかかる死体</title>
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		<pubDate>Thu, 15 Apr 2010 07:13:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[関東大震災（1923年）]]></category>
		<category><![CDATA[経験]]></category>
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		<category><![CDATA[関東大地震]]></category>

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		<description><![CDATA[被災地：東京　本所区
当時私ども父母と兄妹３人は工場の従業員２０数人と住んでいた。
私は府立第一高女の二年生で始業式から帰宅、浴衣に着替えてアルバムを見ていた。
突然ゴーﾂという音に何だろうと思って顔をあげた瞬間、ドンと [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>被災地：東京　本所区</p>
<p>当時私ども父母と兄妹３人は工場の従業員２０数人と住んでいた。<br />
私は府立第一高女の二年生で始業式から帰宅、浴衣に着替えてアルバムを見ていた。</p>
<p><span id="more-174"></span>突然ゴーﾂという音に何だろうと思って顔をあげた瞬間、ドンと突き上がりガタンと落ち、大揺れに揺れて歩こうにも歩けない。畳の上を這うようにまごまごしているうちに、目の前に隣家の屋根瓦が現れた。驚いて外へ出ようと思ったが、思うように動けない。突然私の名を呼びながら父がよろけながら私の手を握った。早く逃げるのだと手を引っ張り、やっと外へ出て驚いた。</p>
<p> </p>
<p>つぶれた家々の屋根瓦の山、もうもうとした土煙りの中を父と私は、外手公園から石原町あたりまで走って来たとき、巡査が被服廠へ逃げろと誘導していたので、みな被服廠跡めがけてかけ出した。もう広場は一杯で、荷物を引いた馬、大八車に満載した畳、家財道具、そのそばでもたれるようにしている怪我人など、不安とあせりで私達は危険ということは全く気付かなかった。</p>
<p> <br />
被服廠跡は火に囲まれ黒煙の中を炎が上がっている。「広いけど大丈夫かしら」と話ながら少しでも落ち着きたいと思っていた。この大量の家財道具に火がついたらどんな惨事になるかなどは夢にも考えていなかった。空は真黒、その中に絵の具で塗ったような真っ赤な大きな太陽が見え何とも不気味な光景、「お母さん達、大丈夫かしら」「大丈夫だよ、大勢いるから皆と一緒に来ているよ」私達もこのまま火は消えるものと信じ込んでいた。と突然ゴーﾂという音と一緒にものすごい風が起こり、アﾂという間に物はみんな飛び散り、火が私達の中に舞い込んできた。</p>
<p> </p>
<p>「お父さんお父さん」と私はころげ廻りながら呼び続け、父の手を求めたが、その時はもう父と離れ父の声は聞こえない。私は声の続くかぎり父の名を呼び続けた。ころんでは起き、起きてはころびして真暗闇の中を走った。折り重なった死体の上も走った。闇と火の二色だけの中を走り廻ったのだ。</p>
<p> </p>
<p>急に気味悪いばかりの静かな所に出た。一方は火で明るく、一方は真暗で何ということなしに暗いほうへと歩いていった。安田邸の池に出た。私は夢中で池の中に飛び込んだが火の粉が顔にふりかかり、その度に頭を水の中に入れて防いだ。「駄目だ駄目だもっと頭を沈めて」と人の声、ああ人がいた、生きている人が。私はその男の人に支えられて初めて涙が溢れた。池の中にはかなりの人が生きていた。ああ、私は生きていたのだ。</p>
<p> <br />
あたりがボーﾂと明るくなって私はこんな光景は恐らく終生めぐり会う事はないだろうと思ったぐらい震えが止まらなかった。木という木は真黒に焼けぼっくいになり、その木の股に焼けただれた死体がまたがっているではないか、身体中の力が抜けてしまった。親切な人のお蔭で隅田川の川ぷちまできたとき初めて浴衣は裂け手足が血だらけなのに気がつき、急に痛みを感じその場に横になってしまった。</p>
<p> </p>
<p>ふと気づくと、何と軍隊にいっている隣の人がいるではないか、命令で救助隊員としてきたそうな、いろいろお世話になって、その後、両乳房が焼けただれた母や全身火傷になり気絶して暁方の雨で気がついたという兄、軽傷の従弟、工場の人達などど再会することが出来て初めて大声あげて泣いた。しかし父の姿はいくら探しても見当たらなかった</p>
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		<title>関東大地震　経験談③　「ゴゴゴ・・・」という地鳴り</title>
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		<pubDate>Wed, 03 Mar 2010 03:06:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[関東大震災（1923年）]]></category>
		<category><![CDATA[余震]]></category>
		<category><![CDATA[地鳴り]]></category>
		<category><![CDATA[揺れ]]></category>
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		<category><![CDATA[関東大地震]]></category>
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		<description><![CDATA[被災地：東京　（祖父の体験より）
いきなり、「ゴゴゴ…」という地鳴りが聞こえてきたかと思うと、家がグラグラと揺れ始めた。

次は、いきなり「ドン！」 と突き上げるような大きな“縦揺れ”タンスの上に置いてあった物が落ち始め [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>被災地：東京　（祖父の体験より）</p>
<p>いきなり、「ゴゴゴ…」という地鳴りが聞こえてきたかと思うと、家がグラグラと揺れ始めた。</p>
<p><span id="more-140"></span><br />
次は、いきなり「ドン！」 と突き上げるような大きな“縦揺れ”タンスの上に置いてあった物が落ち始め、照明器具の電球が不規則に暴れ始めた</p>
<p>逃げようとしたが、よろめきながら立っているのが、やっとの状態。<br />
尻餅をついた所にタンスが倒れてきたので、間一髪、横に転がってそれを避けた。<br />
「ドカン！」「ガラガラ」という音と悲鳴や怒号が近所中から聞こえてきた。</p>
<p>家の壁は崩れ、柱もバキバキ折れだし、みるみる部屋が潰れ始めた。そのうち、造りの弱い家から潰れ始め、次々と悲鳴が聞こえた。</p>
<p>外に逃げようとしたが、床に両手両足を大きく広げて、体を支えるのが精一杯でなんともならず。　床に踏ん張ったまま、されるがまま大きく揺れている状態が続く。<br />
這ったまま外に逃げ出すこともできなかった。</p>
<p>少しずつ、大きな揺れが収まり、潰れそうな家から外に飛び出した。<br />
すると、あたりの殆どの家が倒壊し、あるいは崩れかけている有様だった。<br />
あちこちから、家族を呼ぶ声や、助けを呼ぶ悲鳴にも似た声が聞こた。</p>
<p>崩れた家の瓦礫の中に、下敷きになっている近所の人たちが見えた。<br />
慌てて助けようと近づいた瞬間、また余震で大きく地面が揺れだした。</p>
<p>　<br />
「バキバキ！ ガラガラ！ 」という音と共に、傾いていた家が一気に倒壊した。<br />
すさまじい悲鳴が聞こえ「はっ！」とすると、さっきまで下敷きになっていた<br />
近所の人が目を大きく見開いたまま、動かなくなっていた。</p>
<p>言葉が出ず茫然としていると「火が出た！逃げろ～！」の声が聞こえた。<br />
何かが焼ける匂いと共に、あちこちから煙が上がっているのが見えた。<br />
ちょうど昼時で火を使っていた家庭が多かった。強い風がさらにその炎をあおった。</p>
<p>「家族は無事だろうか？」　「まずは、自分が避難しなくては！」<br />
「そうだ、あそこに学校があったはず…」<br />
家が崩れ、何も持たずに歩いている人々と、同じ方向に歩き出した。<br />
　</p>
<p>途中、燃える火の中の瓦礫の下で、泣き叫んで助けを呼ぶ人達を<br />
何度も見ましたが、とても近づく事もできなかった。<br />
火は風を起こすので余計に燃え広がり、どんどん炎と風を大きくしていく。</p>
<p>その時はただ、歩き続けるしか無かった。<br />
生きながら焼かれていく人たちに、目をそむけ耳をふさぎながら…。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>昭和南海地震 被災手記⑦ 発光しながら揺れる山脈</title>
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		<pubDate>Wed, 16 Dec 2009 09:24:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[昭和南海地震（1946年）]]></category>
		<category><![CDATA[余震]]></category>
		<category><![CDATA[土台]]></category>
		<category><![CDATA[屋根]]></category>
		<category><![CDATA[柱]]></category>
		<category><![CDATA[瓦]]></category>
		<category><![CDATA[発光]]></category>
		<category><![CDATA[稲光]]></category>
		<category><![CDATA[経験]]></category>
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		<category><![CDATA[裸足]]></category>

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		<description><![CDATA[被災地：徳島市国府町
当時は木造本瓦ぶき二階建てに住んでいました。弟と私は大きな揺れで目が覚めて飛び起き、一番先に戸を開けて裸足で外へ逃げました。庭先で座っていましたら、二階で寝ていた家族も後から出て来ました。あの日は寒 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>被災地：徳島市国府町</p>
<p>当時は木造本瓦ぶき二階建てに住んでいました。弟と私は大きな揺れで目が覚めて飛び起き、一番先に戸を開けて裸足で外へ逃げました。<span id="more-35"></span>庭先で座っていましたら、二階で寝ていた家族も後から出て来ました。あの日は寒くて霜がおりていました。揺れも大きかったですが、音も大きかったように思います。</p>
<p>余震は数回来て、最初の揺れ程ではありませんが、大きなものも何回かありました。電柱の高圧線が縄跳びのように揺れていて、また南に見える四国山脈の山も揺れ、まだ暗いのに稲光のように光っていました。<br />
　約百五十年前の地震では、この辺で十軒ぐらいの家が崩れたらしいですが、この地震では倒れた家も無く、たいした被害も無かったです。我が家では、壁の隅が少し落ちて納屋が傾きましたが後に起こしました。<br />
　津波については翌日新聞、ラジオで県南に被害があったと知りました。ここでは井戸水にも影響は無かったです。停電については記憶がありません。<br />
　助かったことといえば、家が柱の少ない割には、大黒柱に24cmの太いケヤキを使っていたこと、幅広い「さしまわし」がしっかりしていたことだと思います。あれから瓦のふき替えをしましたが、後の阪神大震災のときに屋根を軽い袖瓦にしておけば良かったと思いました。また今では、前の軒が長いので支え柱があと一つあっても良かったのではないかとも思っています。しかし、納屋は柱を強くしていますし、土台も強くしています。</p>
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		<title>福井大地震　体験談③　震度７の震源地で</title>
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		<pubDate>Fri, 25 Sep 2009 08:51:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[福井地震（1948年）]]></category>
		<category><![CDATA[体験談]]></category>
		<category><![CDATA[地割れ]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[戦時中]]></category>
		<category><![CDATA[液状化現象]]></category>
		<category><![CDATA[福井地震]]></category>
		<category><![CDATA[福井大地震]]></category>
		<category><![CDATA[経験]]></category>
		<category><![CDATA[自給自足]]></category>

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		<description><![CDATA[被災地：坂井市丸岡町
蒸し暑いその日。雨が降らず、遅れていた田植えを手伝おうと、児童は午後にはほとんどが帰宅していた。 
　午後４時１３分（サマータイムで当時は５時１３分）のその時、男性教諭数人と中田さんは日の暮れかかっ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>被災地：坂井市丸岡町</p>
<p>蒸し暑いその日。雨が降らず、遅れていた田植えを手伝おうと、児童は午後にはほとんどが帰宅していた。 <span id="more-77"></span></p>
<p>　午後４時１３分（サマータイムで当時は５時１３分）のその時、男性教諭数人と中田さんは日の暮れかかった校舎で終礼の最中だった。<br />
　ゴーと不気味な音とともに一気に激しい揺れが襲った。降り注ぐように割れ落ちるガラス。あわてて机の下に入った。揺れる校舎はあっという間に倒壊。倒れてきた柱と柱の間に運良く隠れた机が入った。「助かった」と実感した。<br />
　はい出た中田さんの目に映った町並みは無残そのもの。見渡せる村という村で目につくのは立ち木だけ。それまであったはずの建物という建物はすべて土煙の下に消えた。カラカラに乾燥していた校庭は地割れし、水が噴き出し水浸し。液状化現象で周りの美田も一面泥の海と化した。その夜、空を照らしたのはおぞましい町の炎。翌日までに丸岡町（当時）の全家屋の七割に当たる１１７６軒が灰となった。<br />
　<br />
　町を見下ろしていた丸岡城も天守閣の一層が土台上に落下。第一、第二層は石垣の下に散乱し、丘の上にあった町のシンボルが影も形も見えなかった。「城」という心のよりどころさえ無くした。<br />
　それからしばらくは、庭に「かや」を張って暮らし、近所で米や大根を互いに分け合って食べ続けた。そんなことができたのも終戦から３年しか経過していなかったからかもしれない。農村部で自給自足に慣れていた上に、堪えしのいできた戦時中の経験が役立った。</p>
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		<title>福井地震　被災談②　突然の出来事、そして悲鳴</title>
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		<pubDate>Thu, 17 Sep 2009 08:40:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[福井地震（1948年）]]></category>
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		<description><![CDATA[被災地：福井市新保
大野市から仕事帰りで京福電車の中だった。永平寺参拝帰りの団体客ですし詰め状態の車両は、福井市新保辺りで、何の前触れもなく横転した。
悲鳴とともに一気に折り重なる乗客。座席のお年寄り数人が窓から上半身を [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>被災地：福井市新保</p>
<p>大野市から仕事帰りで京福電車の中だった。永平寺参拝帰りの団体客ですし詰め状態の車両は、福井市新保辺りで、何の前触れもなく横転した。<span id="more-74"></span></p>
<p>悲鳴とともに一気に折り重なる乗客。座席のお年寄り数人が窓から上半身を投げ出されたまま、車両の下敷きになった。乗客の足だけが車内に残されて痙攣（けいれん）しているのが見えた。<br />
　何とか抜け出し１時間歩いてようやく自宅のある片町にたどりついたころには、国際劇場に火の手が迫っていた。燃え移るのが分かっていても、重くのしかかったがれきをどけることができない。救出は時間との戦いだった。『ごめんな』と置き去りにされて、焼け死んだ人間が何人いたことか。戦後の市民に安らぎを与えた娯楽の殿堂は、最も悲惨な現場だった。</p>
<p>あれから、60年余り経っても、まだ実際に起こった惨劇の１０分の１も語られていない。実際に福井が経験した事実として、もう一度振り返り、地震に備えて何を心掛けておくべきか、みんなが答えを見つけてほしいと強く願う。</p>
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