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	<title>地震体験談(被災経験談) &#187; 懐中電灯</title>
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	<description>悲惨な経験を忘れずに。防災に役立てましょう。</description>
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		<title>新潟中越地震　体験談２　水害、台風、そして地震</title>
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		<pubDate>Fri, 15 Jan 2010 08:09:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[新潟県中越地震（2004年）]]></category>
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		<description><![CDATA[（体験談１の続き）
10月24日
午前零時を過ぎると、「昨日の地震」とラジオは言う。もう昨日になってしまったのだ。震度は６強という。時間は午後5時56分だったと知る。余震が続くだろうという。
入り口の濁沢の土砂崩れで、長 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>（体験談１の続き）</p>
<p><strong>10月24日</strong></p>
<p>午前零時を過ぎると、「昨日の地震」とラジオは言う。もう昨日になってしまったのだ。震度は６強という。時間は午後5時56分だったと知る。余震が続くだろうという。<span id="more-193"></span></p>
<p>入り口の濁沢の土砂崩れで、長岡蓬平温泉が孤立したという。一昨日宿泊したばかりのところだ。もしこの地震が一昨日に起きていたら、家に帰れなかっただろう。朝方冷えこむ。協力して、大釜に持ち寄った５升の米を炊く。味噌汁をつくり、炊き出し。いただいたあと解散。</p>
<p> <br />
　家の中に入ってそのすさまじい様子に息をのむ。本棚から落ちた本で通路は足の踏み場もない。玄関の壁に罅が、ふろばの白壁にも十字に罅が入る。妻も戻ってくる。将行君帰ろうとしたら道が通れず、引き返してくる。柏崎よりの峠でケータイはつながる。娘の資格試験が延期されたことを知る。</p>
<p> </p>
<p>家にあるプロパンを開けてお湯を沸かす。長岡に行くには、国道８号線を柏崎から116号へ抜けて薬師峠から宮本・関原経由でないとは入れないという。長岡が遠くなった。それにしても、なぜこんな災害に遭わねばならないのか、自嘲とも恨みとも取れる感情が湧いてきて、ため息付く。今から150年前の三条地震で良寛は「災害に遭う時は遭うがよかろう」といったではないか。しかし、そんな心境には程遠い。今まで気づいてきた俺の人生が崩れてゆくような錯覚になる。</p>
<p> <br />
　娘一家が長岡に帰るというので、その道を探しに出る。404号は塚山先で通れないという。柏崎に向う。８号線を行く。ここも大積田代から先は通行止め、そこから左折して刈羽に出る。116号線、途中スタンドで給油。薬師峠なら長岡に行けるという。カーブの多い道を越え、宮本関原に入る、新産センターのコンビニに入るが飲み物は売れきれ。ともかくこれで長岡に行けると思って引き返す。</p>
<p> </p>
<p>家に2時半に着く。娘夫婦を見送り、総代から渋海小に避難するよう班内に呼びかけてくれという。班内をまわるが行こうというものはいない。妻の「おぐに荘」が人手がないというので、今夜はここに泊ることにする。体育館にずらりと布団が並び、ここで寝るという。暗い中を懐中電灯で、トイレに行く人の付き添い。朝は、御飯と煮物、プロパンで炊いたという。水は水道の上流から汲んできたという。80人の食事を水やガスなしで用意するのは大変だ。ライフラインの１日も早い復旧を祈るばかりだ。</p>
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		<title>新潟中越地震　体験談１　水害、台風、そして地震</title>
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		<pubDate>Thu, 07 Jan 2010 07:53:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[新潟県中越地震（2004年）]]></category>
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		<description><![CDATA[被災地：新潟県小国町
１０月２３日
午後5時過ぎ、あたりは日暮れて家族は夕飯の準備が整った。長岡に嫁いだ娘は明日ケアマネージャーの試験、会場まで送ってゆくことになっていた。１歳の誕生日を来月14日に控えた孫を連れて実家へ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>被災地：新潟県小国町</p>
<p><strong>１０月２３日</strong></p>
<p>午後5時過ぎ、あたりは日暮れて家族は夕飯の準備が整った。長岡に嫁いだ娘は明日ケアマネージャーの試験、会場まで送ってゆくことになっていた。１歳の誕生日を来月14日に控えた孫を連れて実家へ来ていた。明日は妻が孫の子守役である。<span id="more-191"></span><br />
　</p>
<p>その時、突然激しい地震、一瞬プロパンガスが止まった。「ガスを止めました」のメッセージが流れる。一瞬孫が泣いた。娘が毛布で孫を抱いて外へ飛び出す。玄関の棚の花瓶がすさまじい音を立てて割れた。4人して家を飛び出す。前の床屋さんとお隣さんも出ていた。</p>
<p> </p>
<p>そこへ2回目の余震、これもひどい。電柱に寄りかかる。声も出ない。いまだに経験したことない大きな地震。一体どういう地震だ。どこが震源地か。少しおさまってから家の中からラジオつき懐中電灯を持ってきた。ラジオは小千谷の様子を伝えている。</p>
<p> </p>
<p>車を車庫からだし、そこに娘と孫が入る、「娘と孫を守ってくれ」といいながら、救護施設へあわてて出かける。こんな災害に一生に一度遭うことがあるなんて、今年は、水害、台風、地震と災害続きだ。なぜこんな災害がたびたび起こるのだろうか。布団を取りに家に入るが、出る時なんともなかった玄関のゲタ箱が倒れ、物が散らばって足の踏み場もない。</p>
<p> <br />
　役員が呼びに来て、車で集会所前に集まる。大勢集落の人が集まって炊き出しの準備に入る。ラジオでは死者が刻々と増えている。信じられない。夜が明けるともっと被害は広がるだろう。楢沢集会所は基礎が10センチも西に動き、床板がもり上がっている。</p>
<p> <br />
　車庫に泊っていたバス2台を総代が頼み込んで避難所に借りうける。ここに老人や子供を入ってもらう。ヒーターをつけ放しで車内は暖かい。10時頃、娘婿が長岡から2時間かかってきて来て、びっくりさせる、娘は喜ぶ、孫も目を覚まし、きゃつきゃと喜ぶ。この無邪気さが救いだ。ケータイは「圏外」で通じない。電話も通じない。電気が切れて、真っ暗。安否情報に地域の人の名が出るが、返事が出来ない。</p>
<p> </p>
<p>集会所の石油ストーブがたかれ、お茶をいただく。長い夜だった。ストーブの周りでまんじりともせず夜を明かす。美しい星空だ。この星空の下で展開されている人間の喧騒を見守っているようだ。それにしても、何百年に一度に大地震をなぜ経験しなければならないのか。しきりに溜息が出る。</p>
<p> </p>
<p>町の五十嵐助役来て、防災無線が通じなくて小国の被害状況はマスコミで伝えられないという。生涯の内にこんな災害が来るとは、誰が予想していたか。阪神大地震なんか、他人事のように思っていた。孫は風邪を引いてセキするが、一人はしゃいでいてこの子からエネルギーをいただく。</p>
<p>（体験談２に続く）</p>
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		<title>阪神淡路大震災　体験談②　あの大地震でぼくは</title>
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		<pubDate>Sun, 15 Nov 2009 14:34:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
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		<description><![CDATA[被災地：神戸市中央区（中学２年　男子）
１月１７日５時４６分、ぼくにとって、いや、この阪神一円に住んでいる人にとって、一生忘れられない、あのかつてない大地震が熟睡していたぼくたちを直撃した瞬間だった。
あの瞬間ぼくは、パ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>被災地：神戸市中央区（中学２年　男子）</p>
<p>１月１７日５時４６分、ぼくにとって、いや、この阪神一円に住んでいる人にとって、一生忘れられない、あのかつてない大地震が熟睡していたぼくたちを直撃した瞬間だった。<span id="more-120"></span></p>
<p>あの瞬間ぼくは、パッと目が覚めた。家中の窓や障子、ふすまが破れんばかりの音を出している中で、そして次の瞬間、ぼくが寝ていたベッドがまるで荒れくるった波の中でただひたすら流れにまかせる小舟のように激しく揺れ出した。蛍光灯やグラス、食器が「バリバリ」と、とにかくすごい音を出しながら強く地面に打ちつけられ、水槽もあまりの揺れでサイドボードからとび出し、棚と衝突したらしくガラスが割れ、中にいる十数ひきの金魚や鯉が音を立てながら必死に跳ねていた。</p>
<p>突然のできごとに、普段から地震の時は、座布団でもなんでもいいから頭だけは守れと言われてきたが、ぼくは身動きひとつできずに、ただ呆然とベッドに横たわっていた。揺れが一段おさまってから、ぼくはパジャマのままで、裸足でガラスや金魚があるかどうかもわからないまま、妹と両親の部屋に行こうとひたすら思っていて、まさに理性を失ったパニック状態だった。地面は水槽の水でぬれていて、冷たかった。両親と会ってからも眼鏡がないとほとんど見えないので、両親に「眼鏡を捜して」とばかり言っていた。</p>
<p>この時、一番落ち着いていたのは父さんでした。父さんはまず、ガラスが割れているのでスリッパがないと危ないと言った。それから懐中電灯と眼鏡だ。そして、スリッパをはいて、母さんは懐中電灯を探し出したが、ガラスで少し足を切った。ぼくも父さんに「さっき裸足で歩いていたから、足切ってないか」ときかれたが、幸い足の裏は奇跡的に無傷で、母さんと同じくすねを少し切ったぐらいですんだ。</p>
<p> </p>
<p>しかし、なぜか妹がいない。母さんが声をかけると、妹はタンスが倒れて、身動きができないが、幸い怪我はなかった。眼鏡は確かケースに入れてなかった。半ばあきらめていたが、こっちも奇跡的に無傷だった。</p>
<p>６時ぐらいになると、ようやくお日様はいつもどおりのぼってきた。家の中はめちゃくちゃだった。重そうに見えたタンスやサイドボード、テーブルなどは倒れているのもあれば１０数センチも動いたのもあった。１回も使ったことのない食器やグラスなどが棚から落ち２センチぐらい積もっていた。本とかも本棚から落ち、散乱していた。台所は調味料がおちていたもののごま油以外は割れなかった。</p>
<p>午後５時ぐらいには電気が来た。電子レンジや電気炊飯器は棚から落ちたが、幸い　こわれていなかったおかげで温かいご飯とおかずを食べることができた。テレビも見ることができて、本当に心強かった。夜中に隣の棟のポートビレッジに火事が起こったが、すぐに消してもらえた。こうして、ぼくの１月１７日は終わった。</p>
<p>あの日から５７日の今日３月１５日までに、ぼくは、この地震がなかったら、体験できないいろんなことを体験してきた。</p>
<p>まず、この阪神大震災によって、父さんを尊敬できた。こんな大地震でも落ち着いていて、そして、揺れがおさまった後すぐに浴槽に半分ぐらい水をためたおかげで、どれだけ、助かっただろうか。ふだんは、頑固で、あんまりぼくや妹をかまわないが、初めて、父さんはたよりになるなあ、と思った。</p>
<p>そして、何時間も並んでやっともらえた食料品、このポートアイランドを歩き回っての水探し、水運び、三宮から５キロの米をかついでかえった買い出しで、水のありがたさや食べ物の貴重さが身にしみるほど分かった。</p>
<p>ぼくが２年間ぐらい飼ってきた金魚は半分以上死んだ。犬みたいに人になついたり、遊んだりすることはできないが、なにか家族のようなきずなでつながっていたと思う。水がなくて死んだ金魚もいれば、暗い時に家族にふまれたり、重い物につぶされたりで、無残な遺体を見た時には、涙がでるぐらい、心が引きさかれた。</p>
<p>この阪神大震災によって一番大切に思ったものは何かと聞かれると、ぼくは絶対「家族」と答える。トイレが使えなくて、仮設トイレで仕方なく用をすますのは、むちゃくちゃつらいけど、ぼくがこの体験記を書くため、わざわざ夜中の１時半まで待ってくれた母さんがいなければ、ぼくもここまでがんばれなかったと思う。最後に、ありがとう、お母さん。</p>
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		<title>阪神淡路大震災　体験談①　生きている日を大切に</title>
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		<pubDate>Thu, 05 Nov 2009 14:28:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[★阪神淡路大震災（1995年）]]></category>
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		<description><![CDATA[被災地：神戸市東灘区　（高校１年女子）
あの瞬間は、本当に何が何んだかわかりませんでした。死にたくないと、思い切り叫びました。ガラスが割れて、本棚が倒れてきました。お母さんの声が聞こえて、それっきり静かになりました。お母 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>被災地：神戸市東灘区　（高校１年女子）</p>
<p>あの瞬間は、本当に何が何んだかわかりませんでした。死にたくないと、思い切り叫びました。ガラスが割れて、本棚が倒れてきました。<span id="more-118"></span>お母さんの声が聞こえて、それっきり静かになりました。お母さんは、すぐに私の部屋の入り口まできました。私は自力で本棚を抜け出して、お母さん達と一緒に外へ出ました。</p>
<p>近所の人達は、みんなグラウンドでうろたえていました。家の中に埋まったままの人もいて、男の人達は何とか掘り出そうと必死でした。私は、何も出来ない自分をさびしく思いました。私には、それだけの力はありません。私やお母さん達は家の中を片付けに入りました。</p>
<p>あっという間に夕方になりました。熱いみそ汁を飲みました。空っぽの胃の中に広がるみその味は格別でした。６時になると、みんなは集会所へ入りました。それからは１０分、２０分がなかなか過ぎなくて、私は近所の幼友達二人とずっと歌っていました。</p>
<p>懐中電灯は電池がなくなるといけないので、消したままでした。日中働き詰めた大人の人達は、みんな先に眠ってしまいました。私は怖かったけれど、友達と笑っているうちに少し気持ちが明るくなりました。</p>
<p>次の日の明け方、突然避難勧告が出ました。私達は、毛布をまとって、山の方向を向いて歩きました。やっと辿り着いた所は、野寄公園でした。私は熱が出て、幼友達と一緒に毛布にくるまって寝ていました。公園に身体を横たえるなんて初めてでした。</p>
<p>私は、名前も何も持たない人間になったように感じました。足先が氷のように冷たくて、靴を脱いでマフラー等を巻き付けました。<br />
私達がそうしている間に、お母さん達や他の大人は、風よけ程度のテントを作ってくれました。私と友達は、その中で一日中何も出来ませんでした。</p>
<p>サイレンの音が、ずっと聞こえていました。耳が痛くて、怖くて、聞きたくありませんでした。早く普通の暮らしに戻りたいと思いました。<br />
食料はアンパン等でしたが、数が足りませんでした。私はアンパンが少しの間食べられなくて、ポケットに入れておきました。</p>
<p>夜になって、私は自分の家族や、友達の家族と一緒に、一晩中火の傍にいました。ポケットに入れておいたアンパンを食べると、石けんの味がしました。ポケットに石けんを入れていたからです。私は、みんなが生きていてくれて、本当に幸せです。自分を支えてくれる家族や友達がいるから、落ち込まずに頑張れるのだと思います。</p>
<p>それから数日後、私達は元の家へ帰っていました。水もガスも出ませんでしたが、電気だけはつきました。私は真っ黒な夜が怖かったので、飛び上がる程うれしかったです。洗たく物がたまってきたら、住吉川へいきました。冷たい水に足を浸すと、血管がズキズキして凍りつきそうでした。でもその日は天気が良くて、仕事に慣れてくると楽しくなりました。</p>
<p>水運びも、お風呂で何時間も並ぶことも嫌でなくなりました。私は生きているから、地震で亡くなった人達とは比べられない程幸せです。私の同級生も、３人死んでしまいました。そのうち２人は私の友達でした。私は今でも実感が湧きません。どうして今まで生きて、一緒に勉強して、やっと高校生になれたのに、何のために悩んで苦しんで受験を受けたのでしょうか。仲良くなって、その人を好きになっても、別れなくてはいけないのなら、どうして友達になったのでしょうか。</p>
<p>私はこれからも生きてゆくことができます。生きて、自分次第で精一杯人生を満喫できます。死ぬことは本当に怖いけれど、生きていれば、どんなことでも切り抜けてゆけると思います。</p>
<p>せっかく自分として生まれてきたのだから、いじけてばかりではつまらないとおもいます。わり込みをしたり、働かずに避難所巡りをしたり、お互いにいがみ合ったり、そういうことはいじけたつまらないことだと思います。人間の姿は、こんな時にさらけ出されてしまうのだと思います。</p>
<p>そんな人のいる半面、雨の日、傘もささずに歩いていた私に、自分の身につけていた傘と手袋をくれた人もいました。</p>
<p>私は、人間は醜い欲望の塊ではないのだと思い、感動で胸がいっぱいになりました。私はあの人を見習って、一生懸命生きてゆく中でも、他人を思いやることのできる人間になれるように努力していきたいです。そしてできる限り明るく、今を大切に生きていきたいです。</p>
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		<title>昭和南海地震 体験手記④　人生の中での大きな出来事</title>
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		<pubDate>Thu, 22 Oct 2009 09:05:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[昭和南海地震（1946年）]]></category>
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		<description><![CDATA[被災地：徳島市南沖洲五丁目
あの頃の私は親から離れて大和町の親戚に下宿していました。木造二階建ての一階に寝ていたとき、二階で寝ていた従兄弟の「地震じゃぁ～」の声で目が覚めました。そのとき、近所の小６の女の子が泊まりに来て [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>被災地：徳島市南沖洲五丁目</p>
<p>あの頃の私は親から離れて大和町の親戚に下宿していました。木造二階建ての一階に寝ていたとき、二階で寝ていた従兄弟の「地震じゃぁ～」の声で目が覚めました。<span id="more-27"></span>そのとき、近所の小６の女の子が泊まりに来ていたのですが、二人でギイギイという音と大きな揺れで「いや～ブランコに乗っとうみたい～」と言いながら、そのまま横になったまま揺れが止まるまで布団を被っていました。</p>
<p>揺れるのが収まってから起きたら、二階の部屋に置いてあった花瓶が倒れて出た水と壁土が混ざってドロドロになった物が、布団の上にたくさん落ちていました。それを見て地震の大きさを改めて感じました。揺れで歪んだ窓から外を見ると、真っ黒な雲が空一面に覆い被さり不気味な感じがしたのを今でもはっきり覚えています。<br />
　両親は住吉に住んでいたのですが私のことを心配して、父がやって来て「親戚の家屋は古いから余震で壊れたら危ない」と言って、泊まっていた女の子の家が木工所だったのですが、そこへ連れて行ってくれました。木工所では地割れ対策としてみんなで木を組み合わせて、その上に座って明るくなるまで待ちました。<br />
　幸いにも地割れは無く近所でも壊れた家も無く、壁が落ちたり戸が開き難くなった程度で大きな被害はありませんでした。父のいた住吉のご近所の方達は、井戸水が一度無くなってまた増えたのを見て津波が来ると感じ城山に逃げたそうです。大和町では津波の被害はありませんでした。</p>
<p>少し前までの戦争で戦火の中を逃げ回っていた恐さを思うと、それほどの恐怖はありませんでしたが人生の中での大きな二つの出来事の教訓として私は今でも寝ている枕元に、ラジオ、懐中電灯、水、貴重品等を入れた袋を置いて寝ています。<br />
　近い将来またこのような大きな地震が起こるかも知れないと言われています。体験した者として最小限の身の回り品を常日頃傍に置いて、揺れたらとりあえず押し入れの中、机の下などに隠れて揺れが収まるまで待ち、後は情報を早くキャッチして機敏に行動するのが一番であると考えております。</p>
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