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	<title>地震体験談(被災経験談) &#187; 体験談</title>
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	<description>悲惨な経験を忘れずに。防災に役立てましょう。</description>
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		<title>昭和三陸地震　体験手記②　～地震　海鳴り　ほら津浪～</title>
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		<pubDate>Tue, 10 Aug 2010 08:56:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[昭和三陸地震（1933年）]]></category>
		<category><![CDATA[三陸地震]]></category>
		<category><![CDATA[体験手記]]></category>
		<category><![CDATA[体験談]]></category>
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		<description><![CDATA[昭和８年３月３日、早朝。
当時小学校１年生だったわたしは、ただならぬ気配に目を覚ました。寝ている部屋の畳が、下から突き上げられるように大きく揺れ、家全体がミシミシと異様な軋みを立てている。
　「地震だ。起きろッ」
おふく [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>昭和８年３月３日、早朝。<br />
当時小学校１年生だったわたしは、ただならぬ気配に目を覚ました。寝ている部屋の畳が、下から突き上げられるように大きく揺れ、家全体がミシミシと異様な軋みを立てている。<br />
　「地震だ。起きろッ」<br />
おふくろの声に慌てて床を飛び出し、服を着ようとしたが、足もとが定まらない。 まるで大波の海を漕いでゆく伝馬船のように、右へ寄ったり、左へ寄ったり、やっとの思いで服をつけ、ゴム長をはいて、おふくろの後に従った。<span id="more-241"></span></p>
<p>　 母は、わたしより３歳下の弟を背にして、綿入れねんねこに躰をつつんでいた。表へ出ると、外はまだ真っ暗だが、隣り近所の人々も道路へ出て、不安そうに身を寄せ合い、話し合っている。そのうちに、表通りを歩く人の数が急に多くなりだした。人ばかりでなく、大八車や、リヤカー、それに荷馬車まで、目の前の道路を溢れるように急いでゆく。 当時はまだ未舗装の乾いた道を、みんな一様に東から西の方へと向かって、ざわめきながら流れてゆく。</p>
<p>「津浪だ。津浪が来たぞ」　人々のざわめきのなかから、そんな声が聞こえてくる。<br />
ツナミ。ツナミって、何だろう。<br />
大人たちが、こんな大勢逃げてくるところをみると、よっぽどおっかない怪物か何かに違いない。わたしは、途方もない大きな魔物が海からあがってきて、海辺の人々を襲っている姿を思いうかべ、おふくろのねんねこの端を固く握りしめていた。</p>
<p>　翌朝、兄たちと一緒に浜に出てみた。<br />
わが家は、海から砂浜のひろい空地をへだてて、300ｍほどしか離れていないが、海岸段丘につらなる傾斜地の途中にある。浜へ出るゆるやかな勾配を下りてゆくと、砂地に横たわる防潮堤の切れ間、渚へ抜ける通路のあたりに大きな水溜りがひろがっていた。</p>
<p>　深夜の騒ぎの名残りをみせて、不気味な光を放っているそのどんよりした水面に、まるで大きなハマナスの花でも咲いたように、赤い輝きをみせてぽっかり浮かんでいるものがある。近づいてみるとそれはボックリであった。女の子供が晴着を着たときに履く、あの丸形のボックリ。朱の色に塗り上げられた可愛いボックリの片方が、水に浮かんでいるのであった。</p>
<p>　 鮮烈に輝く赤いボックリ。その瞬間、幼ないわたしは「ツナミ」というものの正体を見たような思いに打たれた。　夜の海の底からやってきた恐ろしいツナミが、晴着姿の女の子をひと呑みにしている光景がまざまざと浮かんできて、思わず首をすくめてあたりを見まわした。 怪物の大きな口に呑みこまれながら、懸命にもがいていたその印が、ここに残っている赤いボックリなのだ。途方もないツナミの恐ろしさ。７歳のわたしは独り合点をし、津浪の恐怖を幼い記憶のヒダに、しっかりと刻みつけているのだった。</p>
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		<title>昭和三陸地震　体験談①</title>
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		<pubDate>Sat, 24 Jul 2010 08:50:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[昭和三陸地震（1933年）]]></category>
		<category><![CDATA[体験手記]]></category>
		<category><![CDATA[体験談]]></category>
		<category><![CDATA[昭和三陸地震]]></category>
		<category><![CDATA[津波]]></category>

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		<description><![CDATA[中央気象台で地震を記録したのは、午前二時三十二分十四秒であった。
三月三日といえば春の気配もわずかに感じられる頃だが、東北地方の三陸沿岸は積雪が大地をおおう厳寒の中にあった。中央気象台の記録によると、その時刻の気温は零下 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>中央気象台で地震を記録したのは、午前二時三十二分十四秒であった。<br />
三月三日といえば春の気配もわずかに感じられる頃だが、東北地方の三陸沿岸は積雪が大地をおおう厳寒の中にあった。中央気象台の記録によると、その時刻の気温は零下十度近くをしめしている。<br />
天候は晴れで、夜空には凍てついたような星が光っていた。</p>
<p><span id="more-238"></span><br />
　三陸沿岸を襲った地震は強烈で、人々は、夜の眠りを破られて飛び起きた。家屋は激しく振動し、時計はとまり、棚の上にのせられていたものは音を立てて落下した。壁が剥落し、障子の破れた家もあった。また、池や沼を厚くおおっていた氷や積もった雪にも割れ目が生じ、町の水道管は破損した。</p>
<p>　強震に驚いた人々は、家から走り出た。震動時間は五分から十分間続き、水平動であった。<br />
戸外はむろんのこと家の中も凍りつくような寒さであった。人々は歯列を鳴らして身をふるわせ、震動がやむと再びふとんの中にもぐりこんだ。地震の後には津波のやってくる可能性がある。しかし、三陸沿岸の住民には、一つの言い伝えがあった。それは、冬季と晴天の日には津波の来襲がないということであった。</p>
<p>　その折も多くの老人たちが、<br />
　「天候は晴れているし、冬だから津波は来ない」<br />
　と断言し、それを信じたほとんどの人は再び眠りの中に落ち込んでいった。</p>
<p>　しかし、その頃、海上は急激にその様相を変えていた。<br />
海水が徐々に干きはじめ、それにつれて沿岸の川の水は激流のように飛沫をあげて走り、海に吸われていた。海水の干く速度は急激に増し、湾内の岩や石が生き物のように海水とともに沖に向かって転がりはじめた。岩は激突し合いながらすさまじい音響を立てて移動してゆく。たちまちに、湾内の海底は干潟のように広々と露出した。</p>
<p>　沖合いに海水と岩の群れをまくし上げた海面は、不気味に盛り上がった。、そして、壮大な水の壁となると、初めはゆっくりと、やがて速度を増して海岸へと突進しはじめた。<br />
　壁は海岸に近づくにつれてせり上がり、一斉にくだけた。</p>
<p>　家々には、地震で起きた人々の手でともされた灯が点々とつらなっていた。屹立した津波が、周囲を水煙でかすませながら部落の上に落下し、たちまちにして灯は絶えた。<br />
家は水圧で粉砕され、人の体とともに激しく泡立つ海水に巻き込まれ、やがてそれは勢いよく干きはじめた海水に乗って沖へと引きさらわれていった。</p>
<p>　海水は、再び海底を露出させ沖合いで体勢をととのえるように盛り上がると、第一波より一段とすさまじい速さで海岸へと進んでいった・・・・</p>
<p>　吉村昭氏の「三陸海岸大津波」より</p>
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		<title>北海道南西沖地震 体験談①　体感したことのない大きな揺れ</title>
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		<pubDate>Sat, 22 May 2010 04:54:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[北海道南西沖地震(2003年)]]></category>
		<category><![CDATA[体験談]]></category>
		<category><![CDATA[北海道南西沖地震]]></category>
		<category><![CDATA[津波]]></category>
		<category><![CDATA[経験談]]></category>

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		<description><![CDATA[平成5年7月12日午後10時17分…
　その夜、妻と娘は就寝していたが、私は居間でテレビを見ながらくつろいでいた矢先、突然の縦揺れに飛び跳ねた。今まで体感したことのないその大きな揺れに「地震だあ！」と叫び、途中から横揺れ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>平成5年7月12日午後10時17分…<br />
　その夜、妻と娘は就寝していたが、私は居間でテレビを見ながらくつろいでいた矢先、突然の縦揺れに飛び跳ねた。今まで体感したことのないその大きな揺れに「地震だあ！」と叫び、途中から横揺れに変わった状態の中、転びながら妻子のもとへ駆けつけた。今にも倒れそうなタンスや鏡台を両手と片足で抑え、妻子の布団の上に倒れるのを夢中で防いでいた。<span id="more-224"></span></p>
<p>その時の状況は今でも鮮明に記憶している。揺れと同時に食器棚から食器が落ちて割れる。家具の上にあった物が落ちて散乱する。その家具もドミノ倒しのように崩れ落ちる。本棚の本が飛び出す。熱帯魚の水槽の水は溢れ出す。窓ガラスの割れる音。蛍光灯が揺れて天井に繰り返しぶつかる。天井や家の柱がミシミシ音をたてる…。「もう収まるだろう」と心の中で冷静さを装うようにつぶやくが、同じ時間と同じ惨状が繰り返される…とにかく家全体が揺らぐ中、家中足の踏む場もないほどに物が散乱し、そのうち停電にもなり、妻は叫ぶ、子どもは泣きじゃくり、もう私もパニック状態となっていた。大きな揺れの影響で焦点の合わないその「現実」は語れるが、その恐怖心は今でも言葉にできないものである。</p>
<p>それでも揺れが弱くなったのを見計らい、妻子を連れて着の身着のまま走って高台に逃げたのは、これほどの揺れなら必ず「津波」が襲ってくることを予測し、目の前に日本海が拓け、海抜3メートルほどの地に建つ我が家が飲み込まれることを確信したからだ。暗夜の中を駆け抜け、津波の心配がない丘の上にたどり着いたとき、足から大量の血が出ていることに気が付いた。家を飛び出すときに真っ暗で何も見えなかったこと、散乱した家具やガラスの上を裸足で必死に逃げたためだとその場で思いながら、流血した足を見つめてなぜか安堵した記憶がある。</p>
<p>　正確な揺れの時間は感じ方によって十人十色だが、私は1分以上は続いたような気がした。当時、町内には地震計が設置されていないため正確な震度の記録はないが、建物の崩壊などから最低でも震度6以上の烈震であったと推定されている。震源地は奥尻島の南西沖で、震源の深さ34㎞、地震の強さを示す規模はマグニチュード7.8という日本海の観測史上最大級のもので、年配者に伺っても、昔の文献などを調べても、このような大きな地震はこの島初めての出来事だった。北海道全域や東北地方、遠くは石川県輪島までの広範囲で、最大で震度5の中震を記録していた。</p>
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		<title>関東大地震　体験談⑦　灼熱地獄</title>
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		<pubDate>Wed, 07 Apr 2010 06:44:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[関東大震災（1923年）]]></category>
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		<description><![CDATA[被災地：東京浅草
私は当時、紅商伊勢半本店に勤めていた。当日は朝から大雨が降っていた。
浅草の銀行に行き用が済んで帰る途中、
勤め先のあと１００メートル位の所で俄かに地鳴りが起こり、揺れが始まり、やがて電柱は７５度位の角 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>被災地：東京浅草</p>
<p>私は当時、紅商伊勢半本店に勤めていた。当日は朝から大雨が降っていた。<br />
浅草の銀行に行き用が済んで帰る途中、</p>
<p><span id="more-164"></span>勤め先のあと１００メートル位の所で俄かに地鳴りが起こり、揺れが始まり、やがて電柱は７５度位の角度で左右に動き、立っていられず地面に伏した。付近の家屋は見る見るうちに倒壊し始め、瓦や積み上げた薪炭などが落下してくるので道端の下水溝に退避した。地震も少し静まったので店に駆け付けたところ右往左往の大混乱であった。</p>
<p> <br />
　火災は二之橋、吉田町法恩橋通り、浅草蔵前方面の３ケ所だったが、このままでは危険であるので避難することにし何も持たずに家を出た。亀戸、蔵前、本郷方面は火災のため通行出来ない。思案していると誰かが言うことなしに被服廠跡へ行けと声がし、私を含めた会社の人１５名がそこへ入った。この広場は相当な広さで、私達はその中央寄りに集まった。広場の南方向に当時、安田保善商業が建築中で、その建物および足場に津波を恐れた群衆が登り避難していた。広場は、荷車等に家財を満載し運び込む避難者で身動き出来ない状態になった。</p>
<p> <br />
　突然、物凄い竜巻と突風が吹き荒れ始め、家財や人体が中天高く吹き上げられ、人々の泣き叫ぶ声、助けを求める人、経文を唱える人などで大混乱となった。私は傍にあった布団を頭に被り地に伏した瞬間、煙が一面に立ち上がり見る見るうちに、荷物に火が付き、一面火の海と化した。私も立ち上がり、方向も分からず人と共にかけだし、物につまづいて転倒し多くの人に踏みつけられた。人々は行手に安田邸の塀があり、その上には硝子片が植付けられており、乗越えられず全員が焼死した。</p>
<p> <br />
　私は倒れるとともに耳、頭、手足に火傷を負い、呼吸が困難になり思わず寝返りをうち、うつ伏せとなった時、急に呼吸が楽になり同時に冷たい風が吹き付けた。私は生気を取り戻し、地面を５メートル位這ってゆくと水溜まりがあった。夢中でその中に飛び込み、炎が吹き付けるたびに水をかぶり火災を防いでいた。<br />
　</p>
<p>　どの位たったのか。気が付いたときは広場の到るところ死人の山、泣き叫び救いを求める人、経文を唱える人、水をくれと叫ぶ人で騒然としていた。死者の大半は、衣類は焼け黒焦げで性別さえわからずまた妊婦が産気づき、子供が生まれかかり、腹部に裂傷を負い子供が出かかっている人もいた。衣類などはそのままに、窒息して死んだ人も多数いた。</p>
<p>被服廠跡と電車通りの境に巾１メートル、長さ１００メートル位の下水溝には、折り重なって寿司詰めの状態で死んでいた。建築現場の足場に登っていた人達も一瞬の突風に吹き落とされ全員焼死した。若宮町に在った女学校の生徒数十名が避難していたが、全員焼死し、靴と紫のはかまをはいた片足だけが残っていた。このようなことを世に言う灼熱地獄かと思った。</p>
<p>一緒に避難した店の者の生存を確かめるため、大声で名前を呼び歩いたところ、１５名中、９名死に１名の重傷者（翌朝死亡）がわかった。このとき大声で群衆を整理していた人がおり、相生警察書でただ一人生き残った警察官であった。　</p>
<p>朝から何も食べていないので空腹と咽が渇ききっており、隣接地区の製氷会社の倉庫に行き、氷で渇きをしのいでいた</p>
]]></content:encoded>
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		<title>関東大震災　体験談⑥　焼けトタンに切られた友</title>
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		<pubDate>Fri, 26 Mar 2010 06:35:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[関東大震災（1923年）]]></category>
		<category><![CDATA[体験]]></category>
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		<category><![CDATA[映画館]]></category>
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		<category><![CDATA[関東大震災]]></category>

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		<description><![CDATA[　被災地：東京浅草
私は当時本所区柳島梅森町に住み、１４歳で精工社に入社しておりました。
その日は休日で朝のうち雨でしたが、午前１０時頃晴れてきた。
友人と一緒に午前１１時頃家を出、浅草で映画を見ていたところ、お昼頃不意 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　被災地：東京浅草</p>
<p>私は当時本所区柳島梅森町に住み、１４歳で精工社に入社しておりました。<br />
その日は休日で朝のうち雨でしたが、午前１０時頃晴れてきた。</p>
<p><span id="more-158"></span>友人と一緒に午前１１時頃家を出、浅草で映画を見ていたところ、お昼頃不意に体が持ち上げられ、左右に激しく傾いたと同時に、頭上から絶叫に似た声が起こって、３階から２、３人の客が落ちて来て、館内は大混乱におちいった。客は総立ちになり、出口へと殺到した。<br />
　</p>
<p>私は友人と人にもまれながらようやく館外に出たが、前は寿司屋横丁で余りの激しい震動で立っていることも出来ず、寿司屋の軒先の柱にしがみついたが、その柱も大きく左右に揺れて、今にも店の建物が倒れかかってくるような恐怖におそわれた。地面に手をついている者もいた。映画館の看板が随所で落下する音があたりに聞こえた。</p>
<p>揺れ方が僅かに衰えたので、柱から手を離し寿司屋横丁を出た。角に建っていた天麩羅屋が倒れ、一人の男が太い材木の下から顔を出し眼球が飛び出て口から下を誑らしており、初めて目にする死者の顔に驚き、どうしてよいかわからなかった。<br />
　</p>
<p> ひょうたん池へ逃げろという人の叫び声で、池の方へ走り出したが足が思うように進まず、ようやく池に来た時、前方の１２階の上方の部分が裂けると右方に倒れて、私達のところへ血だらけの人々が歩いてきた。そのうちに人々と共に観音様の境内に逃げたが、早くも花屋敷の方より火災が起き近づいたので、私は母のいる家へ帰るため吾妻橋を渡り本所の方へと逃げて来たが、途中アゴひもをかけ抜剣した警察官に、被服廠跡へ行けと強く言われたので、午後３時頃被服廠跡へ入りました。</p>
<p>　<br />
　付近の人々は続々と家財を持ち込んで避難してきた。その人達は家財を周囲に立てて、その中にゴザを敷いて寄り集まっていた。避難者の数は時を追うにしたがって激増し、やがて敷地内は人々と家財で身動き出来ぬほどでした。</p>
<p> <br />
　町並が徐々に焼きはらわれて、被服廠跡にも日が迫り、火の粉が一斉に空地に降りかかり始めると、一瞬の間に家財や荷物が音を立てて燃え出した。たちまち空地は大混乱に陥り、炎を避けようと走るが人々の体にぶつかり合い、倒れた者の上に多くの人々がのしかかる。炎は地をはうように走り、人々は衣服を焼かれ倒れる人もいた。その中を右に左に走っていたが、足にふれるのがあるので見ると、焼死体を踏んでおり、体がむれているのか、腹部が破れ内蔵がほとばしっていた。</p>
<p>そのうちに烈風が起こり、大旋風となり、初めのうちはトタンやフトンが舞い上がっていたが、見る間に家財や人も巻き上げられました。当時運送屋が使っていた馬力が馬ごと荷物を積んだまま空高く巻き上げられ、空中でおしつ位の大きさになり木の葉のようにキリキリ舞いして落ちて来た。馬にも火が付きあばれ出し、その車の下になって死んだ人も大勢いた。旋風と竜巻の恐ろしさにただただ驚きました。</p>
<p>私も友人と右と左に逃げ回っていましたが、突然焼けトタンがすさまじい勢いで飛んできた。と同時に、身近で変な音がした。友人が倒れたのだ。そして起こそうとしたが、意外にも友人の頭部が失われているのに気がついた。焼けトタンは、友人の首を鋭利な刃物で切ってしまったようでした。首のない友人の手は、私の手を堅くつつんだまま離さない。</p>
<p>私は必死の思いで友人の指を開き、ようやく離れ逃げだしているうちに、荷物の上に乗りましたが、とたんに中に落ち、そこには５人ほどの人がおり、中の女の人が可哀相だと言って、魔除けと言い迷信でしょうが、赤い腰巻きを私の頭に被せました。その時にその人々の荷物が焼け、私は頭部、顔、左手、左足、腰部に大火傷をしました。なおも逃げているうちに、気が遠くなり何もわからなくなりました。</p>
<p> <br />
　気が付いたときは軍隊の担架に乗せられており、亀戸第一小学校に運ばれていました。当時の衛生状態と暑さのために、火傷のところからうじが湧き、それは苦しい思いでしたが、命を取りとめ生存しました。</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>関東大震災　体験談④　群衆の頭上をなめる火</title>
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		<pubDate>Wed, 10 Mar 2010 06:14:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[関東大震災（1923年）]]></category>
		<category><![CDATA[体験]]></category>
		<category><![CDATA[体験談]]></category>
		<category><![CDATA[地震]]></category>
		<category><![CDATA[関東大地震]]></category>
		<category><![CDATA[関東大震災]]></category>

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		<description><![CDATA[被災地：東京都本所区
あの日は蒸風呂のような酷暑であった。私は工場の隅でブランコに乗っていた。突然、左右上下に揺れだして止まらなくなった。
「地震だ、モ－タ－を止めろ」と叫ぶ声が飛んだ。
ミシミシと大きく揺れ、鋭く怒った [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>被災地：東京都本所区</p>
<p>あの日は蒸風呂のような酷暑であった。私は工場の隅でブランコに乗っていた。突然、左右上下に揺れだして止まらなくなった。<span id="more-147"></span></p>
<p>「地震だ、モ－タ－を止めろ」と叫ぶ声が飛んだ。</p>
<p>ミシミシと大きく揺れ、鋭く怒ったように揺れる。棚から物が落ちてくる、電燈のカサが目茶目茶に揺れ天井にぶつかりガラスの破片がすっ飛ぶ。梁と柱が悲鳴をあげて離れそうになる。近くの家の倒れる音が地響きをたて、砂じんが舞い込んでくる。</p>
<p>工場の屋根に大きな物干場があり、父母や兄姉、従業員などが集っていた。父は四方を眺め、火事場の数を見て「ここまでは燃えてこないだろう」と云っていた。父の指図で炊き出しを始め、握り飯を頬張りながら火事の様子を眺めていたが、若宮町の方角で一時衰えていた火勢が急に盛り返し、煙が私達の頭上まで拡がってきてキナ臭い匂いが漂い薄暗くなり、パラパラと燃えかすが落ちてきた。</p>
<p>「被服廠に行こう」と父が云い、足袋を集めさせて一同に履かせた。父の機転で足袋を履いたお蔭で助かったと感謝している。道路が狭く、路地が入り込んでいてなかなか表通りに出られない状態であった。血だらけの負傷者を背負う人、気が狂ったように泣き叫ぶ人、電車が立往生し、架線が垂れ下がり、水道管が破裂して被服廠前は水が溢れ、溝との境が見えない。既に広場は人と荷物でごったがえしていた。荷馬車を引き入れ口論している馬方もいた。</p>
<p>　　　　　　　　<br />
　あたりが急に薄暗くなってきた。四方から煙が空を覆い太陽を隠すように重なり合った時、突然、風が吹き始め忽ち強風となり、渦を巻いて砂じんを吹き付けた。顔や手足が痛い。眼も開けられず、立っても居られず、みな毛布や布団を頭から被った。いつの間にか砂じんが火の粉と変り、忽ち火の渦となり火焔となって人や荷物に燃え移って荒れ狂う。ゴ－ッと火焔が空にのびていくと、大八車や箪笥や人間が舞い上る。馬が人垣のなかで暴れ、火だるまになった人達がバタバタと倒れる。　　</p>
<p>　　　　　　　　　　　　<br />
　私は妹の手を引き、無我夢中でどこをどう歩いたのか記憶がない。妹が熱い熱いと云うので私の上衣を脱ぎ、頭にかぶせると忽ち誰かに奪われてしまった。人波に押されて下敷になる人、無理矢理に押されて火焔のなかに倒される人もいた。幾時間が過ぎて火勢が衰え暗さが増してきたとき、坊やと呼ばれたような気がして、声の方を見ると、母が妹を抱いて立っているのが見えた。</p>
<p>今でもはっきり記憶に残っているが、母の姿が白く浮きでていて他のものは何も見えなかった。私と妹は夢中で死体を踏み越えて駆け寄った。母は「助からないときは、一緒に死のう」と云ったが私はもう大丈夫だと母を慰めた。安全で座れる場所を探そうと安田庭園の近くまで死体を除けながら母の手を引いて歩いたが座る場所がなく、しかたなく３、４人の黒い死体を引っぱって場所をつくった。手が炭を塗ったように黒くなり、あとあとまで気になった。</p>
<p>やがて何処からとなく「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」と呟きが聞こえ、その呟きが合唱のように一斉におきてあがった。暗闇が一枚一枚ベ－ルをはがすようにあたりが明るくなるとともに人影が動き始め、「誰誰や－い」と家族を探す声が腹を切ったように始まった</p>
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		<title>新潟中越地震　体験談３　全国からの励まし</title>
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		<pubDate>Sun, 24 Jan 2010 07:48:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[新潟県中越地震（2004年）]]></category>
		<category><![CDATA[ボランティア]]></category>
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		<category><![CDATA[避難所]]></category>
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			<content:encoded><![CDATA[<p>被災場所：機内（新潟上級）</p>
<p>10月23日最初の大きな地震のあった時、私は大阪の学会からの帰りの飛行機の中にいました。もうすぐ新潟空港に着陸という時に機内放送で中越を中心とした震度６強の地震があり着陸ができないと案内があり、新潟市上空を１時間ほど旋回を繰り返し、待たされました。<span id="more-189"></span>機内でのラジオ放送で大変なことになっていると知り、家族のことが心配で気が気ではありませんでした。</p>
<p> </p>
<p>それでもようやく着陸でき、何とか新潟駅までは行くことができましたが、そこから先、住居のある長岡市まで、新幹線、在来線、高速道路、あげくは一般国道まですべて遮断され、なすすべがありませんでした。家族に連絡をとりたくても携帯電話、公衆電話もパンク状態で何十回いや何百回かけたでしょうか。全くつながりません。いらだたしさとせつなさ、そしてわびしさがつのるばかりでした。二度とあんな思いはしたくありません。</p>
<p> </p>
<p>駅前で２、３時間したころ幸運にも県内にいる身内から携帯に連絡が入り、車で迎えにきてもらえることになりました。その車で長岡に向かいましたが、一般国道は通行止めということで、通れそうな裏道をさがしながら普段の道のりなら１時間のところ３時間以上もかかりました。長岡に近づくにつれて道は陥没や亀裂がひどくなっていき、停電で街灯や信号機もすべてストップしており、自分の家の付近まできたころは、電柱はたおれているは、マンホールは飛び出しているはで、大変なことがおきたことを実感しました。</p>
<p> </p>
<p>それでも夜中にようやく自宅に辿り着き家族が避難所に行っていることを知り、ようやく避難所で家族に会うことができました。全身から力が抜けるくらい安堵したのを鮮明に覚えています。翌日、夜明けと同時に自宅いってみましたが、それはもう言葉には言い表せないほど、酷いものでした。部屋の中はズタズタ・メチャメチャで割れたガラスと家具などで足の踏み場もないありさまでした。しかし、幸いにも家族が全員無事で怪我もなかったことを良しとして、必死に後片付けをしました。</p>
<p>長岡市や小千谷市を中心とした中越地区の被害状況が徐々に明らかになってくると、私の家はまだ被害の少ない良いほうなんだということがわかりました。周辺をみても倒壊した家や半壊の家がいくつもありました。　ライフラインがダメだったことと、強い余震のため私たち家族は５日間ほど避難所で過ごしざるをえませんでした。これも二度と体験したくないほど悲惨な経験でした。</p>
<p> </p>
<p>食べ物の配給は極くわずかでしたし、風呂にも入れない、そしてなによりも寒かったです。本当につらい毎日でした。私たち家族は５日間ほどでしたが、２週間以上経った今でも避難所でつらい生活を強いられている人がまだまだ沢山います。その方々の身体と精神的な面が非常に心配です。</p>
<p>しかし、今回の地震というつらい試練の中で一つだけすばらしいと感激したことがあります。それは全国各地からの支援してくださる方々です。地震のあった翌日か翌々日には兵庫ナンバーや茨城、福島ナンバーなど数多くの他県の災害支援車がかけつけてくれて、ライフラインの復旧に全力をあげて取り組んでくれていました。石川県からの看護師さんも見かけました。全国各地からの多くのボランティアの方々が「がんばろう新潟」のワッペンを胸に一生懸命支援してくださる姿をあちこちで見ました。励ましの電話やメールもたくさんいただきました。本当に心が熱くなる思いでした。我々がどれだけ救われたことか…。</p>
<p> </p>
<p>私たちの本当の戦いはこれからです。全国のみなさんからのあたたかい支援を励みとしてがんばっていきたいと思います。</p>
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