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	<title>地震体験談(被災経験談) &#187; 体験手記</title>
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	<description>悲惨な経験を忘れずに。防災に役立てましょう。</description>
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		<title>昭和三陸地震　体験手記②　～地震　海鳴り　ほら津浪～</title>
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		<pubDate>Tue, 10 Aug 2010 08:56:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[昭和三陸地震（1933年）]]></category>
		<category><![CDATA[三陸地震]]></category>
		<category><![CDATA[体験手記]]></category>
		<category><![CDATA[体験談]]></category>
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		<description><![CDATA[昭和８年３月３日、早朝。
当時小学校１年生だったわたしは、ただならぬ気配に目を覚ました。寝ている部屋の畳が、下から突き上げられるように大きく揺れ、家全体がミシミシと異様な軋みを立てている。
　「地震だ。起きろッ」
おふく [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>昭和８年３月３日、早朝。<br />
当時小学校１年生だったわたしは、ただならぬ気配に目を覚ました。寝ている部屋の畳が、下から突き上げられるように大きく揺れ、家全体がミシミシと異様な軋みを立てている。<br />
　「地震だ。起きろッ」<br />
おふくろの声に慌てて床を飛び出し、服を着ようとしたが、足もとが定まらない。 まるで大波の海を漕いでゆく伝馬船のように、右へ寄ったり、左へ寄ったり、やっとの思いで服をつけ、ゴム長をはいて、おふくろの後に従った。<span id="more-241"></span></p>
<p>　 母は、わたしより３歳下の弟を背にして、綿入れねんねこに躰をつつんでいた。表へ出ると、外はまだ真っ暗だが、隣り近所の人々も道路へ出て、不安そうに身を寄せ合い、話し合っている。そのうちに、表通りを歩く人の数が急に多くなりだした。人ばかりでなく、大八車や、リヤカー、それに荷馬車まで、目の前の道路を溢れるように急いでゆく。 当時はまだ未舗装の乾いた道を、みんな一様に東から西の方へと向かって、ざわめきながら流れてゆく。</p>
<p>「津浪だ。津浪が来たぞ」　人々のざわめきのなかから、そんな声が聞こえてくる。<br />
ツナミ。ツナミって、何だろう。<br />
大人たちが、こんな大勢逃げてくるところをみると、よっぽどおっかない怪物か何かに違いない。わたしは、途方もない大きな魔物が海からあがってきて、海辺の人々を襲っている姿を思いうかべ、おふくろのねんねこの端を固く握りしめていた。</p>
<p>　翌朝、兄たちと一緒に浜に出てみた。<br />
わが家は、海から砂浜のひろい空地をへだてて、300ｍほどしか離れていないが、海岸段丘につらなる傾斜地の途中にある。浜へ出るゆるやかな勾配を下りてゆくと、砂地に横たわる防潮堤の切れ間、渚へ抜ける通路のあたりに大きな水溜りがひろがっていた。</p>
<p>　深夜の騒ぎの名残りをみせて、不気味な光を放っているそのどんよりした水面に、まるで大きなハマナスの花でも咲いたように、赤い輝きをみせてぽっかり浮かんでいるものがある。近づいてみるとそれはボックリであった。女の子供が晴着を着たときに履く、あの丸形のボックリ。朱の色に塗り上げられた可愛いボックリの片方が、水に浮かんでいるのであった。</p>
<p>　 鮮烈に輝く赤いボックリ。その瞬間、幼ないわたしは「ツナミ」というものの正体を見たような思いに打たれた。　夜の海の底からやってきた恐ろしいツナミが、晴着姿の女の子をひと呑みにしている光景がまざまざと浮かんできて、思わず首をすくめてあたりを見まわした。 怪物の大きな口に呑みこまれながら、懸命にもがいていたその印が、ここに残っている赤いボックリなのだ。途方もないツナミの恐ろしさ。７歳のわたしは独り合点をし、津浪の恐怖を幼い記憶のヒダに、しっかりと刻みつけているのだった。</p>
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		<title>昭和三陸地震　体験談①</title>
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		<pubDate>Sat, 24 Jul 2010 08:50:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[昭和三陸地震（1933年）]]></category>
		<category><![CDATA[体験手記]]></category>
		<category><![CDATA[体験談]]></category>
		<category><![CDATA[昭和三陸地震]]></category>
		<category><![CDATA[津波]]></category>

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		<description><![CDATA[中央気象台で地震を記録したのは、午前二時三十二分十四秒であった。
三月三日といえば春の気配もわずかに感じられる頃だが、東北地方の三陸沿岸は積雪が大地をおおう厳寒の中にあった。中央気象台の記録によると、その時刻の気温は零下 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>中央気象台で地震を記録したのは、午前二時三十二分十四秒であった。<br />
三月三日といえば春の気配もわずかに感じられる頃だが、東北地方の三陸沿岸は積雪が大地をおおう厳寒の中にあった。中央気象台の記録によると、その時刻の気温は零下十度近くをしめしている。<br />
天候は晴れで、夜空には凍てついたような星が光っていた。</p>
<p><span id="more-238"></span><br />
　三陸沿岸を襲った地震は強烈で、人々は、夜の眠りを破られて飛び起きた。家屋は激しく振動し、時計はとまり、棚の上にのせられていたものは音を立てて落下した。壁が剥落し、障子の破れた家もあった。また、池や沼を厚くおおっていた氷や積もった雪にも割れ目が生じ、町の水道管は破損した。</p>
<p>　強震に驚いた人々は、家から走り出た。震動時間は五分から十分間続き、水平動であった。<br />
戸外はむろんのこと家の中も凍りつくような寒さであった。人々は歯列を鳴らして身をふるわせ、震動がやむと再びふとんの中にもぐりこんだ。地震の後には津波のやってくる可能性がある。しかし、三陸沿岸の住民には、一つの言い伝えがあった。それは、冬季と晴天の日には津波の来襲がないということであった。</p>
<p>　その折も多くの老人たちが、<br />
　「天候は晴れているし、冬だから津波は来ない」<br />
　と断言し、それを信じたほとんどの人は再び眠りの中に落ち込んでいった。</p>
<p>　しかし、その頃、海上は急激にその様相を変えていた。<br />
海水が徐々に干きはじめ、それにつれて沿岸の川の水は激流のように飛沫をあげて走り、海に吸われていた。海水の干く速度は急激に増し、湾内の岩や石が生き物のように海水とともに沖に向かって転がりはじめた。岩は激突し合いながらすさまじい音響を立てて移動してゆく。たちまちに、湾内の海底は干潟のように広々と露出した。</p>
<p>　沖合いに海水と岩の群れをまくし上げた海面は、不気味に盛り上がった。、そして、壮大な水の壁となると、初めはゆっくりと、やがて速度を増して海岸へと突進しはじめた。<br />
　壁は海岸に近づくにつれてせり上がり、一斉にくだけた。</p>
<p>　家々には、地震で起きた人々の手でともされた灯が点々とつらなっていた。屹立した津波が、周囲を水煙でかすませながら部落の上に落下し、たちまちにして灯は絶えた。<br />
家は水圧で粉砕され、人の体とともに激しく泡立つ海水に巻き込まれ、やがてそれは勢いよく干きはじめた海水に乗って沖へと引きさらわれていった。</p>
<p>　海水は、再び海底を露出させ沖合いで体勢をととのえるように盛り上がると、第一波より一段とすさまじい速さで海岸へと進んでいった・・・・</p>
<p>　吉村昭氏の「三陸海岸大津波」より</p>
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		<title>北海道南西沖地震　体験手記③　島が沈没する</title>
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		<pubDate>Thu, 10 Jun 2010 05:14:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>地震体験・被災経験</dc:creator>
				<category><![CDATA[北海道南西沖地震(2003年)]]></category>
		<category><![CDATA[体験手記]]></category>
		<category><![CDATA[北海道南西沖地震]]></category>
		<category><![CDATA[奥尻島]]></category>
		<category><![CDATA[津波被害]]></category>

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		<description><![CDATA[　　あの夜。明るい月がべたなぎの海面を照らし、漁師の多くは早朝のウニ、アワビ漁に備えて寝込んでいた。鴈原課長も、フェリーターミナルから２キロほどの球浦の自宅で布団に入っていた。
　バーンという衝撃波を受けたような激しい揺 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　　あの夜。明るい月がべたなぎの海面を照らし、漁師の多くは早朝のウニ、アワビ漁に備えて寝込んでいた。鴈原課長も、フェリーターミナルから２キロほどの球浦の自宅で布団に入っていた。<span id="more-230"></span></p>
<p>　バーンという衝撃波を受けたような激しい揺れでした。その後の記憶は「悲惨」の一言に尽きます。あの光景はいま思い出してもざわっとくる。波の中で手を離した子供を探して歩く半狂乱の若い奥さんの姿、海面をびっしりと覆ったおびただしいがれき……。「奥尻が沈没した」と思ったほどの衝撃でした。（住宅被害は５２５棟。町の３分の１に相当する家屋を失った。中でも青苗や稲穂、松江地区は壊滅状態だった。）</p>
<p>　揺れがおさまった時、１９８３年に起きた日本海中部地震での津波被害を瞬時に思い起こしました。目の前の浜に出ると、道路がぬれていて、すでに第１波が来た後だった。すぐ家族と高台に避難した。直接は見なかったが、１波は軟らかく、２波、３波はすごい状態で押し寄せてきたようだ。「もう大丈夫だろう」と近所の人と海を見ると、がれきとともに車が浮いていた。中からおばあちゃんを救出したが助かりませんでした。この間、着替えを取りに家に戻った妻が引き波で家もろとも沖に流された。泳ぎが得意なことが幸いし、約２時間半後、１キロほど離れた海岸に泳ぎついた。</p>
<p>　着の身着のまま翌日から報道担当をしました。２００人くらい来ましたか。同じことを何回もしゃべらせられたり、海上保安庁が運んできた被災者用の弁当を食べられたりと大変でした。でも、マスメディアの力の大きさも知りました。全国から義援金や救援物資などが、ものすごい速さで届きましたから。あの温かい支えが、復興の原動力になったと思っています。</p>
<p>　発生直後、私は再建に１０年はかかると思いました。ハード面は５年で完全復興宣言をしたが、宣言から今までが本当の意味での復興だったと思います。昨年の観光客は５万７０００人で震災前を初めて上回り、何年も漁を我慢して育つのを待っていたウニやアワビもやっと回復しました。かつての自然豊かな島にやっと戻ったなと思っています。</p>
<p>　半面、一般会計が５０億円そこそこの町は、住民１人当たり２４０万～２５０万円の大きな借金を抱えることになりました。この負担は大きいなんてもんじゃない。過疎や高齢化は進むし、離島の宿命である行政コストの高さも年々重くのしかかっています。でも、この島に住んで良かったと思える暮らしのために、前向きに頑張っていきたいです。（水道や道路など奥尻町の被害総額は約６６４億円。復興のために国、道、町の予算約８５０億円が投入された）</p>
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