(体験談1の続き)
10月24日
午前零時を過ぎると、「昨日の地震」とラジオは言う。もう昨日になってしまったのだ。震度は6強という。時間は午後5時56分だったと知る。余震が続くだろうという。
入り口の濁沢の土砂崩れで、長岡蓬平温泉が孤立したという。一昨日宿泊したばかりのところだ。もしこの地震が一昨日に起きていたら、家に帰れなかっただろう。朝方冷えこむ。協力して、大釜に持ち寄った5升の米を炊く。味噌汁をつくり、炊き出し。いただいたあと解散。
家の中に入ってそのすさまじい様子に息をのむ。本棚から落ちた本で通路は足の踏み場もない。玄関の壁に罅が、ふろばの白壁にも十字に罅が入る。妻も戻ってくる。将行君帰ろうとしたら道が通れず、引き返してくる。柏崎よりの峠でケータイはつながる。娘の資格試験が延期されたことを知る。
家にあるプロパンを開けてお湯を沸かす。長岡に行くには、国道8号線を柏崎から116号へ抜けて薬師峠から宮本・関原経由でないとは入れないという。長岡が遠くなった。それにしても、なぜこんな災害に遭わねばならないのか、自嘲とも恨みとも取れる感情が湧いてきて、ため息付く。今から150年前の三条地震で良寛は「災害に遭う時は遭うがよかろう」といったではないか。しかし、そんな心境には程遠い。今まで気づいてきた俺の人生が崩れてゆくような錯覚になる。
娘一家が長岡に帰るというので、その道を探しに出る。404号は塚山先で通れないという。柏崎に向う。8号線を行く。ここも大積田代から先は通行止め、そこから左折して刈羽に出る。116号線、途中スタンドで給油。薬師峠なら長岡に行けるという。カーブの多い道を越え、宮本関原に入る、新産センターのコンビニに入るが飲み物は売れきれ。ともかくこれで長岡に行けると思って引き返す。
家に2時半に着く。娘夫婦を見送り、総代から渋海小に避難するよう班内に呼びかけてくれという。班内をまわるが行こうというものはいない。妻の「おぐに荘」が人手がないというので、今夜はここに泊ることにする。体育館にずらりと布団が並び、ここで寝るという。暗い中を懐中電灯で、トイレに行く人の付き添い。朝は、御飯と煮物、プロパンで炊いたという。水は水道の上流から汲んできたという。80人の食事を水やガスなしで用意するのは大変だ。ライフラインの1日も早い復旧を祈るばかりだ。