被災地:東京 本所市
当時、私は9歳でした。突然「ゴオ-ッ」という異様な地鳴りがした。祖母は安政大地震の経験者であり、誰れよりも早く表へ飛び出していった。父は母と私を抱えて、タンスに寄りそっていたが、様子を見て「今だ逃げろ」と云われたが、二度ばかり転んでやっと表に出た、その瞬間に家は大音響と共に倒壊した。木造家屋はミシミシと音を立て、屋根瓦は落ち続け、私達の避難を妨害した。
父は、在郷軍人で、町内の人の救出作業に行き、残された私達三人は、父に命じられた被服廠に向ったが、道路は人と荷車で一杯で前に進めない。屋根の上で抜刀した巡査が、「荷物は捨てろ」と叫んでいた。数万坪の被服廠跡は人と荷物で既に満員であった。僅かに、前日の雨で水が溜ったところが空いているだけである。
私達はそこに陣取ったが、今にして思えばこれが幸したのでした。時間は不詳ですが、突然、竜巻が起った。この時、荷物と人間が空中に舞い上るのを見た。火勢は一挙に荷物に火がついたのです。私達は、目の前の水溜りに飛び込みました。私の膝あたりの深さの水溜りの底を祖母は懸命に掘り続け胸のあたりまで掘り下げるという超人的な作業をなしとげた。
火は熱く泥土と化した水に、顔を入れたり出したり、赤く焼けたトタン板が飛んできて何人もの人々が死んでいった。その板を頭に乗せて火の粉を防ぐが、すぐ熱くなり、水に浸しては頭に乗せる。これを何十回と繰り返し続けているうちに、誰かが「火は下火になったぞ」とどなっているのが聞えた。しかし、一度、下火になった火勢は再び盛り返し、又も死闘が続いた。
それから数時間経った頃「万歳、万歳」と喚声が挙りました。周辺は暗く夜になっていた。私達はどうして助かったのか説明は出来ません。濡れねずみの身体を抱き合っていました。やや落ち付きを取り戻してみると、周辺の水溜り以外のところには焼死体が類類としており、焼けてふくれあがった様は人間とは思えない程です。
祖母と母は、煙で目が見えない、幸か不幸か、私だけが目が見えたので、私達は、少しづつ移動して被服廠を出ようとしましたが、途中で半死の状態の人が「水を呉れ、水を呉れ」と私の着物をつかんで離しません。濡れた着物をしぼって泥水を口に当ててあげましたが死んでしまいました。被服廠の廻りの溝にも焼死体が積み重なり見るも無惨の光景でした。
私は、目の見えない祖母と母を連れて安田庭園に落ち付き、二人の目を冷すため、近くの氷室に氷を取りに行きました。この時の氷は、まさに値千金のものでした。