(体験談1の続きから)
家族の行方が心にかかった
本所方面に避難した弟も気がかりだった
本所方面では数万人の焼死者があったとの噂
私は火の鎮まるのを待って尋ねに出たが
浅草橋の広場の
焼け死んだ死体の惨状は言語に絶した
中にもしや弟でもと思い
死体の一人一人を覗いて歩いた
それから程なく母親と子達と
弟にも巡り合うことが出来
皆で無事を喜び合った
一同は私の母親の生地、埼玉県草加のA方に厄介になった
当時の私の商品は店の他に
尾張屋倉庫、東神倉庫、自家工場
および二十余軒の請負職方等に散在していたが
そのどれもが焼失
僅か一、二の職方の元にあった加工依頼品だけが焼け残った
トラックで搬出した商品や家財も灰になり
積み出しの際、手に触った白金の時計だけが手元に残った
当時の私の不動産は
店と
隣家を買収して拡張準備中の工場と
貸しつけてあった店舗四戸と土蔵一棟の
どれ一つとして焼け残ったものはなかった
余焔の鎮まるのを待って私は店の焼け跡に立った
どちらを向いても果ても知らない焼け野原であった
再び旧のように家が立ち並ぶのは幾年後であろうか
営々と築き上げた努力の結晶も一夕にして煙と化した
それを思うと商売する気力が起こらず
田舎で鮒を釣って暮した